「この青、とても深い色ですね」
カナが銅錯体の溶液を眺めた。
「硫酸銅水溶液」ミリアが答えた。「Cu²⁺イオンが、水分子に囲まれている」
「なぜ青いんですか?」
レイがノートを開いた。「それは、d電子のエネルギー準位が分裂するからだ」
「分裂?」
「遷移金属イオンは、d軌道に電子を持つ。通常、5つのd軌道はほぼ同じエネルギーだ」
ミリアが補足した。「でも、配位子が近づくと状況が変わる」
「配位子…水分子のこと?」
「そう。水分子の非共有電子対が、金属イオンに配位する」
レイがホワイトボードに図を描いた。「6個の水分子が、銅イオンの周りに八面体配置で並ぶ」
「きれいな配置ですね」
「この時、5つのd軌道は二つのグループに分かれる」
カナが不思議そうに聞いた。「なぜ分かれるんですか?」
「配位子との距離が違うからだ」レイが説明した。「dz²とdx²-y²軌道は、配位子の方向を向いている」
「だから反発が強い」ミリアが続けた。
「その分、エネルギーが高くなる。一方、dxy、dyz、dzx軌道は、配位子の間を向いている」
「反発が弱いから、エネルギーが低い」カナが理解した。
「そう。この分裂をΔo、八面体分裂という」
トーマが部室に入ってきた。「青い液体作ってるのか?」
「金属錯体の色について学んでます」カナが答えた。
トーマが興味を示した。「じゃあ、なぜ銅は青くて、鉄は赤茶色なんだ?」
レイが説明した。「Δoの大きさが違うからだ。そして、その値が吸収する光の波長を決める」
「吸収?」
「d電子が、低いエネルギー準位から高いエネルギー準位に励起される。その時、特定の波長の光を吸収する」
ミリアが補足した。「Cu²⁺の場合、赤色の光を吸収する。だから補色の青が見える」
カナが驚いた。「吸収された色の補色が、私たちに見える色」
「その通り」レイが頷いた。
トーマが別の試薬瓶を取り出した。「じゃあ、この緑色のニッケル錯体は?」
「赤と青の両方を吸収してる」レイが答えた。「だから緑が残る」
「配位子を変えると、色も変わりますか?」カナが尋ねた。
「良い質問」ミリアが微笑んだ。「配位子の種類で、Δoの大きさが変わる」
レイが配位子系列を書いた。「I⁻ < Br⁻ < Cl⁻ < F⁻ < H₂O < NH₃ < en < CN⁻」
「右に行くほど、Δoが大きくなる」
「つまり、吸収する光の波長が変わる」カナが理解した。
トーマが実験を始めた。「銅イオンにアンモニアを加えてみよう」
溶液の色が変わった。薄い青から、濃い青紫へ。
「わあ!」カナが声を上げた。
「アンモニアの方が、水より強い配位子だ」レイが説明した。
「だからΔoが大きくなって、吸収波長が変わった」
ミリアが静かに言った。「色は、電子のエネルギー状態を映す鏡」
「美しいですね」カナが呟いた。
「そして」レイが続けた。「生体内の金属錯体も、同じ原理で働く」
「ヘモグロビン?」
「そう。鉄-ポルフィリン錯体。酸素が配位すると、色が変わる」
「動脈血が赤くて、静脈血が暗いのは…」
「酸素の有無で、配位状態が変わるからだ」ミリアが頷いた。
トーマが感心した。「化学って、身の回りにあるんだな」
「視覚的に理解できるのが、金属錯体の面白さだ」レイが言った。
カナがノートに書き込んだ。「色は、分子の電子状態を語る」
「そして」ミリアが付け加えた。「その色が、生命現象を支えている」
実験室の窓から、夕日が差し込んだ。溶液の青が、より深く輝いた。
「次は、別の金属で試してみましょう」カナが目を輝かせた。
「コバルト、クロム、マンガン…色とりどりだよ」トーマが笑った。
「遷移金属の虹」レイが静かに言った。「化学の美しさがそこにある」