「陸、今日の提出物、ちゃんと持ってきた?」
由紀が心配そうに尋ねた。
「うん、大丈夫」陸が答えた。
「本当に?昨日も『大丈夫』って言ってたけど、実は忘れてたよね」
陸は苦笑いした。「今回は本当に大丈夫」
葵が近づいた。「由紀の質問は、冗長性を持たせてるね」
「冗長性?」
「同じ確認を複数回する。情報理論的には、冗長だが実用的だ」
由紀が納得した。「陸くんは信頼性が低いから、冗長な確認が必要なんです」
「ひどい評価だな」陸が笑った。
葵が説明した。「通信路の信頼性が低いとき、送信側は冗長性を増やす。これは合理的な戦略だ」
「じゃあ、もし完璧に信頼できる相手なら?」
「冗長性は不要。一度言えば十分だ」
陸がノートを開いた。「でも、完璧な通信路はないって、前に習った」
「正確に。だから、現実では適度な冗長性が常に必要だ」
由紀が尋ねた。「冗長性の量は、どう決めるんですか?」
「通信路のエラー率による。エラーが多いほど、冗長性を増やす」
葵はホワイトボードに図を描いた。
「例えば、三重冗長システム。同じデータを3回送信し、多数決で正しい値を決定する」
「3回も?効率悪くないですか?」
「効率は下がる。でも、信頼性は大きく上がる。トレードオフだ」
陸が思い出した。「そういえば、今朝先生が『明日のテスト、範囲は第3章から第5章。繰り返す、第3章から第5章』って言ってた」
「それも冗長性だ」葵が頷いた。「重要な情報ほど、繰り返される」
由紀がノートに書いた。「冗長性 = 重要度?」
「必ずしもそうじゃないが、相関はある。エラーが許されない情報には、高い冗長性を持たせる」
陸が尋ねた。「じゃあ、恋愛の告白で『好きです、本当に好きです、すごく好きです』って繰り返すのは?」
葵が笑った。「感情の強さを伝える冗長性だ。でも、情報量は増えてない」
「増えてない?」
「『好き』という情報は最初の一回で伝わる。繰り返しは、その確実性を高めるだけだ」
由紀が補足した。「でも、受け取る側は安心しますよね」
「その通り。心理的な効果がある。情報理論的には冗長でも、感情的には意味がある」
葵が続けた。「実は、自然言語自体が非常に冗長だ」
「自然言語が?」
「英語の冗長性は約50パーセント。つまり、単語の半分が消えても、大体の意味は理解できる」
陸が試した。「『今日は良い天気ですね』から文字を消すと…『今□□良□天□□□ね』」
「それでも『今日は良い天気ですね』と推測できる」由紀が言った。
「文脈と文法が、欠損を補う」葵が説明した。「これが自然言語の頑健性だ」
「でも」由紀が尋ねた。「効率を上げるために、冗長性を削ったらダメなんですか?」
「電報文みたいに?『明日10時集合』」
「そう」
「可能だ。でも、ノイズに弱くなる。『明日□□時集合』になったら、困る」
陸が納得した。「だから、普段の会話は少し冗長でいいんだ」
「そう。余裕がある通信は、エラーに強い」
葵は別の例を出した。「航空管制の通信では、重要な情報を必ず復唱する。『滑走路34、了解、滑走路34』」
「命に関わるからですね」由紀が理解した。
「正確に。クリティカルな情報ほど、冗長性を持たせる」
陸がふと思った。「じゃあ、由紀が何度も確認するのは、俺への優しさ?」
由紀が恥ずかしそうに笑った。「優しさというか、自衛です」
「でも」葵が言った。「その冗長な確認があるから、陸のミスが減る。それは互いのためだ」
陸が真剣になった。「じゃあ、俺ももっと冗長に返事すべき?」
「例えば?」
「『持ってきた。確認した。間違いない』とか」
葵が頷いた。「それは良い。送信側も冗長性を持たせれば、誤解は更に減る」
由紀が微笑んだ。「これからは、お互い少し冗長に話しましょう」
「効率は下がるかもね」葵が付け加えた。「でも、信頼性は上がる」
三人は夕暮れの部室で、冗長性の価値について語り合った。
簡潔さは美しいが、冗長さは優しい。
時には、繰り返す言葉が人を救う。