「ミラさん、目が赤いですね」
日和が静かに声をかけた。放課後の心理学研究室で、ミラは窓の外を見ていた。
ミラは小さく首を振った。「大丈夫」
空が近づいた。「泣いてもいいんですよ」
「泣かない」ミラがきっぱり言った。珍しく、言葉で答える。
日和が優しく座った。「泣くことを我慢すると、心にどんな影響があるか知っていますか?」
ミラが視線を向けた。興味があるようだ。
「感情の抑制は、短期的には役立つこともあります」日和が説明し始めた。「でも、長期的には心理的ストレスを蓄積させます」
空がノートを開いた。「感情には出口が必要なんですね」
「そう。カタルシスという概念があります。抑圧された感情を解放することで、心理的浄化が起こる」
ミラがノートに書いた。「Catharsis = purification?」
「正確です」日和が頷いた。「古代ギリシャ語で浄化を意味します。アリストテレスが演劇理論で使った言葉です」
「涙にも意味があるんですか?」空が聞いた。
日和が微笑んだ。「涙には三種類あります。基礎分泌、反射的、そして感情的な涙」
「感情的な涙が特別?」
「ストレスホルモンを排出する機能があります。コルチゾールなどの化学物質が、涙と共に体外に出る」
ミラが驚いたように目を見開いた。
「だから、泣いた後にすっきりするのは、科学的根拠があるんです」空が理解した。
日和が続けた。「それに、泣くことは社会的なシグナルでもあります。助けを求める、共感を得る、つながりを深める」
「でも」ミラが静かに言った。「弱さを見せることが怖い」
空が共感した。「私もそう思うことがあります」
日和が優しく答えた。「それは社会が作った誤解かもしれません。感情を表現することは弱さではなく、人間性の証です」
ミラが考え込んだ。
「文化によっても違いますよね」空が言った。「泣くことへの態度」
「その通り。でも、生理学的には、人間は泣くようにできている。それを無理に抑えることは、自然に逆らうこと」
ミラがゆっくり頷いた。
日和が優しく続けた。「感情調整の方法は、抑制だけではありません。認知的再評価、表現的筆記、対人的共有など、いろいろあります」
「表現的筆記?」空が聞いた。
「感情を書き出すこと。言葉にすることで、整理され、理解が深まります」
ミラがノートを見つめた。自分も時々、書いている。
「泣くことを我慢した日は、誰にでもあります」日和が言った。「でも、それを続けると、心は重くなる」
空が静かに言った。「感情は、貯めておくものじゃないんですね」
「水のようなものです。流れることで、清潔さを保つ」
ミラが小さく震えた。そして、ゆっくりと涙が頬を伝った。
日和と空は、静かに寄り添った。言葉は必要なかった。
数分後、ミラが顔を上げた。目は赤かったが、どこか軽やかだった。
ミラが書いた。「Thank you」
「いつでも、ここにいます」日和が微笑んだ。
空が付け加えた。「泣いてもいい場所があるって、大切ですよね」
ミラが小さく頷いた。今日、一つ学んだ。感情を抑えることと、感情を無視することは違う。そして、時には流すことが、最も強い選択だということを。
窓の外で、雨が降り始めた。空も、時には泣くのだ。