「H⁺って、一人で存在できないの?」
奏がノートを見つめた。
零が答えた。「水溶液中では無理。すぐ水と結合する」
「結合?」
「H₃O⁺、ヒドロニウムイオンになる」
ミリアが補足した。「プロトンは小さすぎる。裸では不安定」
「だから旅をする?」
「そう。分子から分子へ、移動し続ける」
零が図を描いた。「酸塩基反応の本質は、プロトンの授受」
「授受?」
「酸がプロトンを渡し、塩基が受け取る」
奏が理解した。「ブレンステッド・ローリーの定義?」
「正解。酸はH⁺供与体、塩基はH⁺受容体」
ミリアが例を出した。「HClと水。HClがH⁺を水に渡す」
「HClが酸、水が塩基」
「この反応で、HClはCl⁻に、水はH₃O⁺になる」
零が続けた。「Cl⁻とHClは共役酸塩基対」
「共役?」
「プロトン一個の差で関係してる。Cl⁻はHClの共役塩基」
奏がノートに書いた。「逆に、H₃O⁺とH₂Oも共役対?」
「その通り。水はH⁺を受け取ったら酸になり、失ったら塩基になる」
「両性?」
「水は両性物質。相手によって酸にも塩基にもなる」
ミリアが実験を提案した。「酢酸を水に溶かしてみよう」
透明な液体に数滴垂らす。pH紙を浸す。
「酸性!」奏が色の変化を見た。
「CH₃COOHがH⁺を水に渡した」零が説明した。
「でも、全部は解離しない?」
「弱酸だから。一部だけがH⁺を放出する」
「平衡状態?」
「そう。CH₃COOH ⇌ CH₃COO⁻ + H⁺」
奏が考えた。「じゃあ、強酸は?」
「HClとか。ほぼ完全に解離する」
ミリアが比較した。「強酸は旅立つH⁺が多い。弱酸は少ない」
「だからpHが違う」
零が補足した。「pHは-log[H⁺]。H⁺濃度の対数」
「数字が小さいほど酸性?」
「そう。pH7が中性、それ以下が酸性、以上が塩基性」
奏が質問した。「H⁺って、どれくらいの速さで移動するの?」
「非常に速い」零が強調した。
「グロタス機構という特別な仕組みがある」
ミリアが図を描いた。「H⁺が隣の水分子に飛び移る。連鎖的に」
「リレーみたい」
「正確。プロトンジャンプと呼ばれる」
零が続けた。「だから、水溶液中のH⁺移動は拡散より速い」
奏が感動した。「水素、忙しいんだ」
「生体内でも重要」ミリアが付け加えた。
「酵素反応、呼吸、光合成…全部プロトン移動が関わる」
「プロトン勾配?」
「ミトコンドリアで、H⁺濃度の差がATP合成を駆動する」
零が整理した。「H⁺の旅が、エネルギーを運ぶ」
奏が窓の外を見た。「見えない粒子が、旅してる」
「今も、君の体の中で」
ミリアが静かに言った。「毎秒、何兆個ものH⁺が移動してる」
奏がノートに書いた。「水素が旅に出る日」
「毎日が、旅の日」零が微笑んだ。
「終わりのない旅」
三人は沈黙した。プロトンの旅は、生命の旅。小さな粒子の移動が、巨大な現象を生む。水素の旅は、今日も続く。