「ミトコンドリアが不満を言ってる」
トーマが顕微鏡から顔を上げた。
奏が笑った。「不満?細胞小器官が?」
ミリアが真剣に頷いた。「もし話せたら、きっと文句を言うだろう」
「なんで?」
「元は独立した生物だったから」ミリアが説明した。
「独立?」
「共生説。20億年前、細菌が別の細胞に取り込まれた」
奏が驚いた。「ミトコンドリアは細菌だった?」
「そうだ」トーマが模型を指差した。「証拠は二重膜」
「二重?」
「外膜は宿主細胞のもの。内膜は元の細菌のもの」
ミリアが補足した。「それに、独自のDNAを持つ」
「別のDNA?」
「小さな環状DNA。細菌のように」
零が部室に入ってきた。「ミトコンドリアの話?」
「不満について」トーマが笑った。
「まあ、働かされすぎだからな」零が座った。
奏が質問した。「何をする場所なの?」
「ATPを作る」ミリアが答えた。「細胞の発電所だ」
「どうやって?」
零が図を描いた。「電子伝達系。内膜に埋め込まれた酵素群」
「電子を運ぶ?」
「そう。NADHやFADH₂から、酸素まで」
トーマが続けた。「その過程で、プロトンを膜の外へ汲み出す」
「プロトンの濃度差ができる?」
「そう。これがエネルギー源になる」
ミリアが説明した。「プロトンが戻るとき、ATP合成酵素を回す」
「回す?」奏が驚いた。
「分子モーター。本当に回転する」零が模型を見せた。
「信じられない…」
「毎秒100回転以上。それでATPを合成する」
トーマが付け加えた。「一日に体重と同じくらいのATPを作る」
「体重分?」奏が驚いた。
「でも、常にリサイクルされてる」
ミリアが質問した。「なんでミトコンドリアは不満なの?」
「だって」トーマが笑った。「休みなく働いて、感謝もされない」
「確かに」零が頷いた。「酸素がなくなると、細胞は文句を言う」
「でも、酸素が多すぎても危ない」
奏が聞いた。「なんで?」
「活性酸素が生まれる」ミリアが説明した。「電子伝達の副産物だ」
「有害?」
「DNAやタンパク質を傷つける」
零が補足した。「ミトコンドリア自身も被害を受ける」
「可哀想…」奏がつぶやいた。
「それに」トーマが続けた。「数は減らされるし、増やされるし」
「細胞が決める?」
「そう。必要に応じて、分裂したり融合したり」
ミリアが言った。「筋肉細胞には何千もある。でも、精子にはほとんどない」
「不公平?」
零が笑った。「機能に応じてだ。でも、ミトコンドリアから見たら不満かも」
奏が質問した。「母親からしか受け継がれないって本当?」
「本当」ミリアが頷いた。「卵子のミトコンドリアだけが残る」
「なんで?」
「精子のミトコンドリアは、受精後に分解される」
トーマが付け加えた。「だから、ミトコンドリアDNAで母系を追跡できる」
「不思議」奏が言った。
零が続けた。「古い細菌の子孫が、私たちの中で生きてる」
「20億年の旅?」
「そう。独立性を諦めて、共生を選んだ」
ミリアが静かに言った。「でも、完全には統合されてない」
「今でも別?」
「独自のリボソームを持つ。独自のタンパク質合成をする」
トーマが笑った。「だから、抗生物質が効くんだ」
「抗生物質?」
「細菌のリボソームを標的にする。ミトコンドリアにも影響する」
零が補足した。「副作用の一因だ」
奏がミトコンドリアの図を見た。「働き者だけど、不満もある」
「生命の矛盾だ」ミリアが微笑んだ。
「でも」トーマが言った。「それが進化の証拠でもある」
零が頷いた。「完璧な統合はない。歴史の痕跡が残る」
奏が感動した。「細胞の中に、別の生き物が」
「共生」ミリアが言った。「互いに依存し、互いに不満を持つ」
「それが関係性?」
「そう。完璧じゃないけど、機能する」
三人は顕微鏡を覗いた。
小さなミトコンドリアが、細胞の中を動く。
20億年前の約束を守りながら。
文句を言いつつ、働き続ける。
それがミトコンドリア。
生命の不思議な同居人。