「進路、決めた?」
葵が由紀に尋ねた。二人は図書館の片隅で、進路希望調査票を前にしていた。
「まだです。選択肢が多すぎて…」
「不確実性が高い状態だね」
「そうなんです。でも、どうやって決めたらいいか分からなくて」
ミラが隣に座り、ノートに書いた。「H(Y|X) - conditional entropy」
葵が頷いた。「条件付きエントロピー。Xという情報を得た後、Yの不確実性がどれだけ残るか」
「進路選択と関係があるんですか?」
「大いにある。例えば、Yを『将来の満足度』、Xを『今選ぶ進路』とする。完璧な情報があれば、条件付きエントロピーはゼロ。でも現実には…」
「不確実性が残る」由紀が言った。
「そう。でも、情報を集めることで、条件付きエントロピーを減らすことはできる」
ミラが新しい式を書いた。「I(X;Y) = H(Y) - H(Y|X)」
「相互情報量。Xを知ることで、Yの不確実性がどれだけ減るか」葵が説明した。
由紀が考え込んだ。「じゃあ、オープンキャンパスに行くとか、先輩に話を聞くとか、それって…」
「情報獲得だ。条件付きエントロピーを減らす行動」
「でも」由紀が不安そうに言った。「完璧な情報なんて手に入らないですよね」
「その通り。だから、ベイズの定理が重要になる」
葵はホワイトボードに式を書いた。
「P(H|E) = P(E|H) × P(H) / P(E)」
「事前確率P(H)があって、証拠Eを観測すると、事後確率P(H|E)に更新される」
由紀が頭を抱えた。「難しい…」
「具体例で考えよう」葵が優しく言った。「理系に進みたいという仮説Hがある。オープンキャンパスで楽しかったという証拠Eを得た。この証拠は、仮説をどれだけ支持する?」
「楽しかったから、理系が合ってるってこと?」
「必ずしもそうじゃない。『理系が合ってる場合に楽しいと感じる確率』と『他の場合でも楽しいと感じる確率』を比較する必要がある」
ミラが図を描いた。確率空間の分割。
「つまり、一つの証拠だけで決められない」由紀がまとめた。
「正確。複数の証拠を集めて、少しずつ事後確率を更新していく。それが合理的な意思決定だ」
「でも」由紀が静かに言った。「計算しても、最後は不確実性が残りますよね」
葵が微笑んだ。「そうだね。でも、それが人生の面白さでもある」
「面白さ?」
「完全に予測できる未来なら、情報量はゼロだ。驚きも、成長も、発見もない」
ミラが新しいメモを見せた。「Uncertainty = Possibility」
「不確実性は、可能性でもある」葵が訳した。「どの選択が正しいか分からないからこそ、どの選択も正しくなり得る」
由紀の目に少し光が戻った。「情報理論的には、不確実性って悪いことじゃないんですね」
「むしろ、情報の源だ。エントロピーが高いから、新しい情報に価値が生まれる」
「じゃあ、私も情報を集めて、少しずつ不確実性を減らしていけばいい」
「そして、最後に残った不確実性は」葵が言った。「勇気を持って受け入れる」
ミラが頷いた。珍しく、言葉を発した。「未来は、決めるものではなく、作るもの」
由紀が驚いた。ミラが話すのを聞くのは初めてだった。
「ありがとう、二人とも。少し見えてきました」
由紀は調査票に向かった。完璧な選択はない。でも、今持っている情報で、最善の事後確率を計算できる。
葵が静かに言った。「青春は、不確実性の中で意思決定を学ぶ時期なのかもしれない」
「条件付きエントロピーと共に生きる訓練」由紀が笑った。
ミラが微笑んだ。三人は、不確実な未来に向かって、それぞれの情報を積み重ねていく。
窓の外で、夕日が沈んでいく。明日の天気も、進路も、まだ分からない。でも、その不確実性こそが、情報であり、可能性なのだ。