「この分子、なぜ効かないんでしょう?」
瀬名が画面を指差した。計算上は完璧に見えるのに、実験では活性が出ない。
轟が隣に座り、タンパク質構造を回転させた。「ポケットを見てみよう」
「ポケット?」
「結合部位のことだ。分子が収まる場所。まるで鍵と鍵穴みたいに、形が合わないと結合しない」
画面には、タンパク質の表面が表示された。小さなくぼみが見える。
「これが結合ポケット」轟が説明する。「ここに、リガンドが入り込む」
「狭そうですね…」
「そう。だから、大きすぎる分子は入らない。君の設計した分子、ここを見て」
轟が分子をポケットに重ねた。明らかに、一部がポケットからはみ出している。
「あ…」
「この部分が、タンパク質表面とぶつかる。立体障害だ」
瀬名が悔しそうに言った。「平面の構造式だけ見ていたから…」
「よくあることだ。2Dで考えると、3Dの問題を見落とす」
轟はポケットの断面を表示した。「深さも重要だ。ここは深いポケット。親水性の残基が底にある」
「セリン、スレオニン…」
「そう。水素結合ドナー、アクセプターが並んでいる。ここを利用すれば、結合が強くなる」
瀬名が考えた。「じゃあ、この部分を削って、代わりに水素結合できる基を付けたら…」
「良い発想だ。やってみよう」
轟が分子を編集する。瀬名の提案通り、嵩高い基を除き、ヒドロキシ基を追加した。
「ドッキングしてみる」
計算が走る。数秒後、新しい構造が表示された。
「入った!」瀬名が歓声を上げた。
「ポケットにぴったり収まっている。しかも、ヒドロキシ基がセリンと水素結合を作っている」
画面には、点線で水素結合が示されていた。
「でも」轟が注意する。「これはあくまで計算上の話。実際に合成して、試してみないと分からない」
「それでも、方向性は見えましたよね」
「そうだ。ポケットの形を知ることで、どう修飾すべきかが分かる」
轟はポケットの別の部分を指した。「ここは疎水性ポケット。フェニルアラニン、ロイシンが並んでいる」
「水を嫌う部分…」
「だから、ここには疎水性の基を配置すると良い。ベンゼン環、脂肪族炭化水素…」
瀬名がメモを取る。「親水性ポケットには親水性基、疎水性ポケットには疎水性基…」
「基本的にはそうだ。でも、例外もある。水分子が介在することもあるし、誘導適合もある」
「誘導適合?」
「タンパク質は固定されていない。リガンドが結合すると、ポケットの形が少し変わることもある」
「柔軟なんですね」
「そう。だから、複数のポケット構造を考慮することもある。異なるコンフォメーションで、最適な結合様式を探る」
轟は別のタンパク質構造を開いた。「これは同じタンパク質だが、別の結晶構造だ」
「少し形が違う…」
「側鎖の配向が異なる。この柔軟性を利用して、より強く結合するリガンドを設計できる」
瀬名が目を輝かせた。「ポケットって、ただの穴じゃないんですね」
「地形みたいなものだ。谷、丘、洞窟…それぞれに特徴がある。その地形を読み取れば、どう進むべきか分かる」
「分子登山家、ですか?」
轟が笑った。「良い例えだ。険しい山もあれば、優しい谷もある」
窓の外で、夕暮れの光が差し込んできた。ポケットの形は、無言で答えを教えてくれる。それを読み取る力が、デザイナーには必要だった。
「次は、もっと複雑なポケットを見てみよう」轟が提案した。
「複雑って?」
「複数のサブポケットを持つもの。それぞれを同時に満たす分子を設計するのは、パズルみたいで面白いぞ」
瀬名は期待に胸を膨らませた。ポケットという地形図を読み解く旅は、まだ始まったばかりだった。