「油と水は混ざらない」
トーマが二つの試験管を見比べていた。
カナが覗き込む。「当たり前じゃないですか?」
「でも、なぜだろう」レイが問いかけた。
「疎水性だから?」
「では、疎水性とは何か」
カナが考え込む。「水を嫌う性質?」
「正確には、水を嫌うのではなく、水が疎水性分子を嫌う」レイが訂正した。
「水が嫌う?」
レイがホワイトボードに図を描き始めた。水分子の構造。
「水分子は極性を持つ。酸素側が負、水素側が正」
「だから水素結合する」トーマが言った。
「そう。水分子同士が水素結合で結ばれている。これがエントロピーを減らす」
「エントロピー?」カナが首をかしげる。
「無秩序さの指標。水素結合は秩序を生む」
レイは続ける。「疎水性分子、例えば油の分子を水に入れると何が起きるか」
「混ざらない」トーマが答える。
「なぜ混ざらないか。それは、水分子が油の周りで特殊な配置を取らざるを得ないからだ」
カナが理解しようとする。「特殊な配置?」
「籠状構造。油の周りの水分子が、より多くの水素結合を作ろうとして、秩序的に配列する」
「秩序が増える?」
「そう。エントロピーが減る。熱力学的に不利だ」
レイはグラフを描いた。「だから、油分子は集合する。表面積を最小にして、水との接触を減らす」
「それが疎水性効果」
「正確。疎水性分子同士の引力というより、水のエントロピーを最大化しようとする結果だ」
トーマが驚く。「水が主役なんだ」
「疎水性効果は、水の性質によって生まれる」
カナが質問する。「タンパク質とどう関係するの?」
「タンパク質のフォールディングは、疎水性効果が駆動力だ」レイが説明した。
「疎水性アミノ酸残基が内部に隠れる。親水性残基が表面に出る」
「なぜ?」
「疎水性残基を水から隔離することで、水のエントロピーが上がる。全体の自由エネルギーが下がる」
トーマが考える。「じゃあ、有機溶媒だったら?」
「良い質問。有機溶媒中では、疎水性効果がない」
「タンパク質は?」
「変性する。構造が崩れる」
カナが理解する。「水という溶媒が、タンパク質の形を決めてるんですね」
「環境が構造を決める」レイが頷いた。
トーマが試験管を振った。「この有機溶媒、不機嫌そうに見える」
「擬人化が過ぎる」レイが苦笑した。「でも、溶媒の極性は重要だ」
「極性溶媒と非極性溶媒で、溶解性が全く違う」
カナが質問する。「界面活性剤は?」
「両親媒性分子。疎水性と親水性の両方を持つ」
「だから油と水を混ぜられる?」
「ミセルを形成する。疎水性部分を内側、親水性部分を外側に向ける」
レイが図を描いた。球状のミセル構造。
「細胞膜のリン脂質も同じ原理だ」
「生体膜も疎水性効果?」
「そう。脂質二重層は、疎水性効果によって自己組織化する」
トーマが感心する。「水の性質が、生命の構造を決めてる」
「水は生命の溶媒」レイが静かに言った。「その特殊な性質が、生体分子の振る舞いを決める」
カナがまとめる。「有機溶媒が不機嫌なのは、水素結合ができないから」
「詩的だが、科学的には正確じゃない」レイが笑った。「でも、溶媒の性質が分子の挙動を左右することは事実だ」
「温度も影響する?」
「大いに。温度が上がると、疎水性効果は弱まる」
「なぜ?」
「エントロピーの寄与が相対的に小さくなる。エンタルピーの影響が大きくなる」
トーマが試験管を並べた。「水、エタノール、ヘキサン。全部性格が違う」
「溶媒の性格」カナが微笑んだ。「分子を取り巻く環境の性質」
「それが化学反応や生体構造を決める」レイが締めくくった。
三人は、溶媒という見えない舞台が、分子という役者の演技を決めることを、深く理解した。