「熱い!」
透真が試験管を置いた。
零が静かに言った。「発熱反応だ」
「なんで熱くなるの?」奏が聞いた。
「結合エネルギーの差」零が説明した。「生成物の方が安定だから、余ったエネルギーが熱として放出される」
「余る?」
「そう。反応物の結合を切るのに必要なエネルギーより、生成物の結合を作るときに放出されるエネルギーの方が大きい」
透真が計算した。「差額が熱になるんだ」
「正確。これがエンタルピー変化、ΔH」
奏がノートに書いた。「ΔH < 0で発熱?」
「そう。エネルギーが系から出ていく」
透真が別の試験管を取り出した。「こっちは冷たい」
「吸熱反応」零が答えた。「エネルギーを吸収する。ΔH > 0」
「なんで進むの?吸熱なら不利じゃない?」
「エンタルピーだけじゃ決まらない」零が続けた。「エントロピーも考える必要がある」
「エントロピー?」
「乱雑さの尺度。自然は乱雑になる方向を好む」
奏が混乱した。「じゃあ、何が反応を決めるの?」
「自由エネルギー、ΔG」零がホワイトボードに書いた。「ΔG = ΔH - TΔS」
「T?」
「絶対温度。Sはエントロピー」
透真が理解した。「ΔGが負なら、反応が進む」
「正解。エンタルピーとエントロピーの総合評価だ」
奏が質問した。「生体内の反応は?」
「ほとんどが吸熱」零が答えた。「でも、ATPの加水分解と共役させる」
「共役?」
「発熱反応と吸熱反応を組み合わせる。全体でΔGを負にする」
透真が例を出した。「グルコースのリン酸化?」
「そう。単独ではΔGが正。でもATP分解と組み合わせれば、負になる」
奏がメモした。「だからATPが必要なんだ」
「エネルギー通貨として、不利な反応を駆動する」
零が続けた。「温度も重要だ。ΔG = ΔH - TΔS、Tが大きいとエントロピー項が効く」
「高温だと?」
「エントロピー増大が有利になる。反応が進みやすくなる場合もある」
透真が酵素の図を描いた。「酵素は、どう関係するの?」
「活性化エネルギーを下げる」零が説明した。「ΔGは変えないが、反応速度を上げる」
「山を低くする?」奏が比喩した。
「良い例え。山の高さは下がるけど、頂上と麓の高度差は同じ」
透真が理解した。「だから平衡は変わらない」
「そう。ただ、速く平衡に達する」
奏が窓の外を見た。「体温が一定なのは?」
「発熱反応で生じた熱を利用してる」零が答えた。「代謝の副産物」
「無駄じゃないんだ」
「むしろ必要。酵素は温度に敏感だから、一定に保つ必要がある」
透真がまとめた。「反応熱が語る物語って?」
零が微笑んだ。「エネルギーの流れ。どこから来て、どこへ行くか」
「保存される?」
「熱力学第一法則。エネルギーは保存される。形が変わるだけ」
奏がつぶやいた。「でも、エントロピーは増える」
「熱力学第二法則」零が頷いた。「不可逆性の源」
「時間の矢」
「そう。過去から未来へ、一方通行」
三人は沈黙した。試験管の熱が、宇宙の法則を語っている。エネルギーは形を変え、エントロピーは増大する。それが、時間の流れを作る。