「動かない…」
奏が電気泳動のゲルを見つめた。一つのバンドだけ、その場に留まっている。
ミリアが説明した。「等電点だ。タンパク質の電荷がゼロになるpH」
「電荷がゼロ?」
「正電荷と負電荷が釣り合ってる状態」
零が補足した。「タンパク質はアミノ酸でできてる。アミノ酸には、酸性基と塩基性基がある」
「両方?」
「カルボキシ基が酸性。アミノ基が塩基性」
奏がノートに書いた。「pH によって、電荷が変わる?」
「そう」ミリアが続けた。「酸性条件では、アミノ基がプロトンを受け取る。正電荷になる」
「塩基性条件では?」
「カルボキシ基がプロトンを失う。負電荷になる」
零が図を描いた。「pH を変えていくと、電荷がプラスからゼロ、ゼロからマイナスに変わる」
「その『ゼロ』が等電点?」
「正確。pI と表記する」
奏が質問した。「等電点で何が起きる?」
「電気的に中性だから、電場で動かない」ミリアが答えた。
「だからゲルで止まってる」
零が続けた。「もう一つ重要な性質。溶解度が最小になる」
「なんで?」
「電荷があると、水分子が引き寄せられる。でもゼロだと、分子間の相互作用が強くなる」
「沈殿する?」
「そう。等電点沈殿。タンパク質精製に使われる」
ミリアがタブレットを見せた。「各アミノ酸には、特有の等電点がある」
「全部違うの?」
「側鎖の性質で決まる。酸性アミノ酸は低い pH、塩基性アミノ酸は高い pH」
零が例を挙げた。「グルタミン酸の pI は約3.2。リジンは約9.7」
奏が計算した。「タンパク質全体の等電点は?」
「構成アミノ酸の組成で決まる。複雑な計算だけど、予測できる」
ミリアが続けた。「ヘモグロビンの pI は約6.8。ペプシンは約1」
「1?すごく酸性」
「胃の中で働く酵素だから。酸性環境に適応してる」
零が強調した。「等電点は、タンパク質の指紋のようなもの」
「同定に使える?」
「等電点電気泳動。二次元電気泳動の一つの軸になる」
奏が混乱した。「二次元?」
「一つ目の軸が等電点、二つ目が分子量。数千種類のタンパク質を分離できる」
ミリアが画像を見せた。無数の点が散らばっている。
「一つ一つがタンパク質?」
「そう。プロテオーム解析の基本技術」
零が別の話題を出した。「生体内でも、pH は重要」
「どういうこと?」
「細胞内 pH は約7.4。でも、細胞小器官によって違う」
「違う?」
「リソソームは pH5。酸性環境で働く酵素が多い」
奏が理解した。「pH で機能を制御してる?」
「そう。等電点付近では、酵素活性が変わることもある」
ミリアが付け加えた。「電荷が変わると、基質結合も変わる」
「だから pH が重要?」
「生命活動の多くは、狭い pH 範囲でしか機能しない」
零が言った。「緩衝液が必要な理由だ」
「pH を一定に保つ?」
「そう。生体内には、重炭酸緩衝系などがある」
奏がゲルを見直した。「動かないバンド、等電点で止まってる」
「電荷ゼロの瞬間」ミリアが静かに言った。
「でも、それが特別な意味を持つ」
零が頷いた。「化学の美しさは、こういう特異点にある」
奏がつぶやいた。「等電点の秘密、少しわかった気がする」
「わかり始めたところだ」ミリアが笑った。
「でも、良いスタート」零が認めた。
三人は、ゲルを見つめた。動かないバンドが、多くを語る。