「また迷ってるの?」
日和が優しく声をかけた。図書館の隅で、ミラは進路希望の用紙を前に動けずにいた。
「決められない」ミラが小さく答えた。
空が近づいてきた。「どっちも良い選択肢なんじゃない?」
「どちらも良いから、困る」
日和が座った。「文学部と心理学部、どっちも興味があるんだよね」
ミラが頷く。「文学は好き。でも、心理学も学びたい。選ぶと、片方を諦めることになる」
「それが辛いんだね」空が理解した。
「心理学で言うと、認知的不協和かもしれない」日和が言った。
「認知的不協和?」
「二つの矛盾する考えを同時に持つと、心が不快になる状態のこと」
空が補足した。「ミラさんの中で、『文学を学びたい』と『心理学を学びたい』という二つの願望が競合している」
「どちらも大切だから、選べない」ミラが呟いた。
日和が優しく聞いた。「選ばなきゃいけないって、誰が決めたの?」
「願書には、一つしか書けない」
「でも、人生で学べることは一つじゃない」空が言った。
ミラが顔を上げた。「どういうこと?」
「今、心理学部を選んでも、文学は独学できる。逆も同じ」
日和が続けた。「完璧な選択なんて、存在しないかもしれない」
「完璧じゃない選択を、どう受け入れればいい?」
空がノートを取り出した。「認知的不協和理論では、人は不快感を減らすために、自分の選択を正当化する傾向がある」
「正当化?」
「例えば、心理学部を選んだら、『心理学の方が就職に有利だ』と考えて、自分を納得させる」
ミラが眉をひそめた。「それって、自分を騙すこと?」
「ある意味では、そう。でも、それが悪いとは限らない」日和が言った。
「どうして?」
「選択後の後悔を減らし、前に進むための心の仕組みだから」
空が例を出した。「でも、過度な正当化は危険。『文学なんて価値がない』と貶めることで、自分の選択を肯定するのは不健全」
「じゃあ、どうすれば?」
日和が提案した。「両方の価値を認めたまま、『今は』心理学を優先する、という考え方はどう?」
「今は?」
「人生は長い。今の選択が、永遠の選択じゃない」
ミラが少し楽になった表情をした。「順番をつける、ということ?」
「そう。同時には無理でも、順次なら可能」空が認めた。
日和が続けた。「それに、心理学と文学は、実は近い。人間理解という点で」
「両方を統合する道もある?」
「文学療法という分野もあるし、物語が心に与える影響を研究する心理学者もいる」
ミラの目に光が戻った。「どちらかを選ぶんじゃなくて、どちらを先に学ぶか」
「視点を変えると、不協和が減る」空が説明した。「選択を『捨てる』から『順序づける』に変える」
日和が微笑んだ。「ミラちゃんらしい道が見つかるといいね」
ミラが用紙に向かった。「少し、見えてきた気がする」
「それは?」空が聞く。
「心理学部を選ぶ。でも、文学は諦めない。図書館に通い続ける」
「良い決断だと思う」日和が認めた。
「認知的不協和を、完全には消せない」ミラが言った。「でも、受け入れることはできる」
空がノートに書いた。「葛藤との共存。それも一つの成長」
ミラがペンを走らせた。初めて、迷いではなく、決意の筆跡だった。
「心が揺れるのは、どちらも大切だから」日和が静かに言った。
「だから、揺れを恐れなくていい」
三人は窓の外を見た。心の揺れは、止まらない。でも、それは弱さじゃなく、豊かさの証かもしれない。