「葵先輩の説明、長すぎません?」
陸が率直に言った。葵は30分かけてエントロピーを説明したところだった。
「確かに、簡潔にはできる。でも、理解の確実性を優先した」
「理解の確実性?」由紀が聞いた。
「情報理論では、冗長性が重要な役割を果たす。無駄に見えても、エラーを防ぐ」
陸が首をひねった。「でも、冗長って『無駄』って意味でしょ?」
「通常はね。でも通信では、意図的な冗長性が情報を守る」
葵はホワイトボードに例を書いた。
「『会議は3時』というメッセージ。最小限だけど、もし『3』が聞こえなかったら?」
「困る」由紀が答えた。
「でも『会議は午後3時、15時開始』と言えば、『午後』『3時』『15時』と三つの情報がある。一つ聞き逃しても分かる」
「冗長だけど、安全」陸が理解した。
「まさに。自然言語は元々、非常に冗長だ。だから会話がスムーズに成り立つ」
由紀が考えた。「じゃあ、葵先輩の長い説明も、理解のための冗長性?」
「そう。同じ概念を、複数の角度から説明する。一つが理解できなくても、他の説明で補える」
陸が笑った。「俺、最初の説明は分からなかったけど、三番目の例でやっと分かった」
「それが冗長性の力だ。情報を多重化することで、誤解を防ぐ」
葵が続ける。「情報理論には、圧縮と冗長性のトレードオフがある。圧縮すれば効率的だけど、エラーに弱い。冗長性を加えれば、非効率だけど頑健になる」
「完璧な通信路なら、圧縮だけでいい」由紀が言った。
「そう。でも現実には、ノイズがある。だから、適切な冗長性が必要だ」
陸がふと思いついた。「じゃあ、『I love you』を確実に伝えるには?」
「冗長にする?」由紀が笑った。
「例えば、『君が好きだ。愛してる。I love you』。三言語で言えば確実」陸が真面目に答えた。
葵が感心した。「実は理にかなってる。複数のチャネルで同じメッセージを送ると、誤解の確率が減る」
「でも、効率は悪いよね」由紀が指摘した。
「そこが設計の難しさだ。相手の理解力、通信路の品質、メッセージの重要性。これらを考慮して、最適な冗長性を選ぶ」
陸が考え込んだ。「重要なメッセージほど、冗長に?」
「そういう傾向がある。飛行機のパイロットは、重要な指示を二回繰り返す。確実性を優先するからだ」
由紀が納得した。「だから先輩は、大事な概念を何度も言い換えるんですね」
「君たちの理解を確実にしたいから。時間はかかるけど、誤解で先に進めないより良い」
陸が笑った。「最初は長いって思ったけど、感謝します」
「冗長性は愛情の表れかもしれない」葵が微笑んだ。「相手に確実に伝わることを願う気持ち」
由紀はノートに書いた。「効率と確実性のバランス。状況に応じて選ぶ。」
「テストでは簡潔に答える。でも、大切な人への手紙は、冗長に書く」陸がまとめた。
「良い対比だ」葵が頷いた。「情報理論は、いつ簡潔に、いつ冗長にすべきか教えてくれる」
外は静かな夕方だった。三人の会話は、適度に冗長で、確実に理解し合えていた。それが心地よかった。