「また逃げたって言われた」
晴が図書館の隅でつぶやいた。
「何から?」蓮が本を置いて聞く。
「部活の問題。でも、私には関係ないのに」
亜が顔を上げた。「関係ないなら、それは逃げじゃないかも」
「え?」
蓮が考えた。「『逃げる』という言葉は、責任から目を背ける行為を指す。でも、そもそも責任がない場合は?」
「逃げじゃない?」
「距離を取る。自己保護だ」亜が静かに言った。
晴が混乱した。「でも、周りは逃げたって」
「他者の評価と、実態は別だ」蓮が指摘した。「問題は、自分にとってその現実が『直面すべきもの』か『離れるべきもの』か」
「どう区別するの?」
亜が答えた。「その問題が、自分の成長に繋がるか。または、他者に害を与えるか」
「成長?」
「向き合うことで、何か得られるなら直面する価値がある」蓮が説明した。「でも、ただ消耗するだけなら、離れるべきだ」
晴が考え込んだ。「消耗か成長か、どうやって見分ける?」
「時間経過を想像する」亜が提案した。「一年後、この問題と向き合った自分と、離れた自分。どちらが良い状態?」
「難しい」
「もう一つの基準がある」蓮が続けた。「その問題は、自分で変えられるか?」
「変えられない問題?」
「天候や他人の感情みたいに、自分のコントロール外のもの。それに執着するのは無意味だ」
晴が頷いた。「ストア哲学?」
「そう。エピクテトスは言った。『自分で変えられることと、変えられないことを区別せよ』」
亜が補足した。「でも、境界線は曖昧。少しは影響できるけど、完全には制御できない問題もある」
「例えば?」
「人間関係。自分の行動は変えられるけど、相手の反応は変えられない」
蓮が深く頷いた。「だから、努力の方向を定める必要がある。結果じゃなく、プロセスに集中する」
晴が質問した。「じゃあ、逃げてもいい現実って、どんなもの?」
「有害で変えられないもの」亜がはっきり言った。「毒のある人間関係、自分の価値観と合わない環境」
「それって、弱さじゃない?」
「逆だ」蓮が力強く言った。「自分を守ることは、強さの証だ。無理に戦う必要はない」
亜が付け加えた。「戦略的撤退という概念がある。再び挑戦するための準備期間」
晴が少し楽になった。「でも、どこまで逃げていいの?」
「それは難しい問いだ」蓮が認めた。「逃げ続けると、逃げ癖がつく。でも、立ち向かい続けると、壊れる」
「バランス?」
「そう。サルトルは『自由は刑罰だ』と言った。選択の責任から逃れられない」
亜が優しく言った。「でも、何を選ぶかは自分で決められる。それが自由の意味」
晴が窓の外を見た。「部活の問題、私の責任じゃないなら、離れてもいい?」
「自問してみて」蓮が促した。「それと向き合うことで、君は何を得る?失う?」
晴が深呼吸した。「得るものは...ない。失うのは、時間と心の平穏」
「なら、答えは出てる」亜が微笑んだ。
「でも、罪悪感がある」
「それは、社会の声だ」蓮が指摘した。「『逃げるな』という規範。でも、すべての問題に立ち向かう義務はない」
亜が静かに言った。「自分を守ることは、逃げじゃない。賢明な選択」
晴が少し笑った。「直面すべき現実と、逃げてもよい現実。区別が大事なんだね」
「人生は選択の連続だ」蓮が言った。「すべてに向き合うのは不可能。優先順位をつける必要がある」
「優先順位?」
「自分の価値観に基づいて、何が重要か決める」亜が説明した。「すべてを戦う必要はない。戦うべき戦いを選ぶ」
晴が立ち上がった。「分かった。部活の問題からは、離れる。でも、自分の課題には向き合う」
蓮が頷いた。「それが、成熟した判断だ」
亜が付け加えた。「逃げることも、戦うことも、どちらも選択肢。大事なのは、意識的に選ぶこと」
三人は図書館を出た。晴の足取りが、少し軽くなっていた。
現実との距離の取り方。それもまた、生きる技術だ。