「今日は何も感じない」
ミラが突然そう言った。部室の窓際で、空はその言葉に振り返った。
日和が穏やかに尋ねた。「何も、ですか?」
「嬉しくも、悲しくも、怒りも。何もない」ミラが自分の手のひらを見つめた。
空が近づいた。「それ、辛くないですか?」
ミラが首を横に振った。「辛いかどうかも分からない」
日和がミラの隣に座った。「感情の麻痺かもしれませんね」
「麻痺?」空が聞き返した。
「心が過度なストレスから自分を守るために、感情を遮断することがあります」日和が説明した。「一時的な防衛反応です」
ミラが静かに頷いた。「昨日まで、いろいろあった」
「心の容量を超えたのかもしれません」日和が続けた。「感じすぎると壊れそうだから、感じないようにする」
空がノートに書いた。「解離の一種?」
「近いです。感情的解離と呼ばれることもあります」
ミラが窓の外を見た。「みんなは笑ったり泣いたりしてる。でも私には遠く見える」
「距離を感じるんですね」日和が共感した。
空が考え込んだ。「でも、何も感じないのが楽なこともありますよね?」
ミラが少し驚いた表情で空を見た。
「痛みがないということは、確かに楽かもしれません」日和が認めた。「でも、喜びもない」
「トレードオフ」空が呟いた。
「そうです。感情の麻痺は、短期的には保護になりますが、長期的には問題になり得ます」
ミラが小さく言った。「このまま戻らなかったら?」
日和が優しく微笑んだ。「必ず戻ります。心は驚くほど回復力があります」
「本当に?」
「はい。ただし、自分で気づくことが第一歩です。ミラさんは今、自分の状態に気づいている」
空が付け加えた。「それって大事なことですよね」
「とても大事です」日和が頷いた。「感情が麻痺していることに気づかず、ずっと無理を続ける人もいます」
ミラがノートを取り出して書いた。「感じないことを感じている」
空が笑った。「不思議な表現ですね」
「でも正確です」日和が言った。「メタ認知ができている証拠です」
ミラが質問した。「どうすれば戻る?」
日和が考えた。「無理に感情を取り戻そうとしなくていいです。まずは休むこと」
「休む?」
「心のエネルギーを回復させる。十分な睡眠、リラックス、安全な環境」
空が提案した。「今日は早く帰って、好きなことをするとか?」
ミラが少し考えてから頷いた。「絵を描くかもしれない」
「良いですね」日和が認めた。「創作活動は、感情を取り戻す助けになります」
空が窓の外を見た。「感情って、なくなってみて初めて大切さが分かるのかも」
「鋭い観察です」日和が言った。「当たり前すぎて、普段は意識しない」
ミラがまた書いた。「感情は、生きている証」
「その通り」日和が微笑んだ。「良いことも悪いことも含めて、感情があるから人間らしい」
空がミラの肩にそっと手を置いた。「今は何も感じなくても、それは一時的です」
ミラが小さく頷いた。
日和が立ち上がった。「もし誰かと話したくなったら、いつでもここにいます」
「ありがとう」ミラが静かに言った。
三人は部室を出た。ミラの心に、ほんの少しだけ温かさが戻ってきた気がした。感情の完全な回復にはまだ時間がかかるかもしれない。でも、その道のりに寄り添う人がいることを、ミラは知った。
何も感じない日も、いつか過ぎ去る。心は必ず、また感じ始める。