「偶然って、あると思いますか?」
ミラが珍しく話しかけてきた。
由紀が驚いて振り返る。「偶然?」
「出会いとか、タイミングとか」
葵が興味深そうに応じた。「確率論的には、すべて確率的イベントだ」
陸が笑った。「恋も確率?」
「ある意味ではね」葵がノートを開いた。「二人が出会う確率、話しかける確率、好意を持つ確率」
「でも」由紀が考えた。「それらは独立じゃないですよね」
「鋭い。独立事象と従属事象の違いだ」
葵はホワイトボードに書いた。「P(A∩B) = P(A)・P(B) なら独立。でも、多くの場合、P(A∩B) ≠ P(A)・P(B)」
「つまり?」陸が聞く。
「出会う確率と、好意を持つ確率は、独立じゃない。出会いが、好意の確率に影響する」
ミラが静かに言った。「Conditional probability」
「そう。条件付き確率。P(好意|出会い) は、P(好意) とは異なる」
由紀が理解した。「出会ったという条件があると、好意の確率が変わる」
「正確。だから、恋は確率的連鎖だ」
陸が考え込んだ。「じゃあ、最初の出会いが一番重要?」
「統計的にはそうかもしれない。初期条件が、その後の確率に影響する」
葵は例を出した。「マルコフ連鎖みたいなもの。現在の状態が、次の状態の確率を決める」
「マルコフ連鎖?」由紀が聞く。
「確率過程の一種。未来は、現在だけに依存し、過去全体には依存しない」
ミラが補足した。「First-order Markov. Simple but powerful」
「恋がマルコフ連鎖?」陸が笑った。
「完璧なモデルじゃないけど、近似としては面白い」
葵が続けた。「『出会った』という状態から、『話した』状態へ。『話した』から『友達になった』へ。各遷移に確率がある」
由紀がノートに図を描いた。状態遷移図。
「でも」ミラが言った。「Love is not Markovian」
「どういうこと?」由紀が聞く。
「過去の経験が、すべて影響する。最初の出会いの印象、すべての会話、すべての瞬間」
「なるほど」葵が認めた。「人間の記憶は、完全なマルコフ性を破る」
陸が手を挙げた。「じゃあ、恋は予測不可能?」
「確率的には扱えるけど、複雑すぎて正確な予測は困難」
葵は別の視点を出した。「でも、だからこそ面白い。もし完全に予測可能なら?」
「つまらない」由紀が即答した。
「そう。不確実性が、恋をドラマチックにする」
ミラが微笑んだ。「Entropy of love is high」
「恋のエントロピーは高い」葵が翻訳した。「多くの可能性がある状態」
陸が窓の外を見た。「俺が今日、ここに来たのも確率的イベント?」
「そうだよ。確率1ではない。何かが違えば、来なかったかもしれない」
「じゃあ、俺たちが出会ったのも」
「確率的イベントの連鎖」葵が静かに言った。「でも、その確率は0じゃなかった」
由紀が考えた。「宇宙のすべての確率的イベントが、私たちをここに集めた」
「詩的だね」葵が微笑んだ。「でも、間違ってない」
ミラが立ち上がり、ホワイトボードに書いた。
「P(we meet) = Π P(events)」
「すべてのイベントの確率の積」葵が補足した。「一つでも0なら、私たちは出会わなかった」
陸が真剣な顔をした。「じゃあ、すべての出会いは奇跡?」
「確率論的には、稀な事象の実現」
「でも」由紀が付け加えた。「だからこそ大切にしたい」
葵が頷いた。「確率が低いイベントほど、情報量は高い。私たちの出会いも、高い情報を持つ」
ミラが静かに言った。「Cherish the improbable」
四人は静かに、自分たちの確率的な出会いを噛みしめた。宇宙の確率分布の中で、彼らは出会った。そして今、ここにいる。それは確率的イベントが運んだ、小さな奇跡だった。