「レン、君は『知らない』と言うのが得意だな」
サイモンがコーヒーを飲みながら言った。
「得意というか、事実を述べているだけだ」レンが答える。
「でも、多くの人は知らないことを認めたがらない」
「知ったかぶりは、思考の敵だ」
サイモンが笑った。「ソクラテスの『無知の知』だね」
「そう。知らないことを知っている。それが知恵の始まりだ」
「でも、現代社会では知らないことを認めると、無能と見なされる」
レンが真剣な顔をした。「それが問題だ。知ったかぶりが蔓延する」
「なぜ、知ったかぶりをするんだろう?」
「プライドと不安」レンが分析した。「自分の価値を、知識量で測ってしまう」
サイモンが頷いた。「知識が権力だった時代の名残かもしれない」
「今も権力だ。でも、嘘の知識は脆い」
「脆いが、短期的には有効だ」
レンがノートに書いた。
「知ったかぶりのコスト:
- 誤った判断
- 学習機会の喪失
- 信頼の崩壊」
「三番目が最も重い」サイモンが指摘した。
「一度嘘がバレると、全てが疑われる」
「じゃあ、なぜ知ったかぶりは続くんだ?」
レンが考えた。「即座に無知を認めるコストの方が、心理的に重いからだろう」
「恥の文化?」
「それもある。特に日本では、『分かりません』と言うのが難しい」
サイモンが同意した。「ドイツでも似ている。専門家は全てを知っているべき、という幻想がある」
「幻想だな。全てを知る人間など存在しない」
「では、どうすれば無知を認められる?」
レンが微笑んだ。「価値観の転換だ。知らないことを恥とせず、学習機会と見る」
「言うは易し」
「確かに。でも、小さな実践から始められる」
「例えば?」
「会話で分からない言葉が出たら、すぐに聞く」
サイモンが試した。「君の言った『即座に』って、どういう意味?」
レンが笑った。「すぐに、という意味だ」
「分かってたけど、実践してみた」
「良い訓練だ。最初は演技でも、習慣になる」
サイモンが真剣に聞いた。「でも、レン。本当に知らなきゃいけない時は?」
「それは責任の問題だ」レンが区別した。「専門家として知るべきことと、一般的な話題は違う」
「専門分野では、知ったかぶりは許されない?」
「許されないし、すべきじゃない。『調べます』『確認します』が正しい」
「でも、それで信頼を失わない?」
「逆だ。誠実さが信頼を生む」
サイモンが考え込んだ。「文化によるかもしれない」
「興味深い指摘だ」
「アメリカでは、『I don't know』が割と受け入れられる。でも、アジアでは難しいことがある」
レンが頷いた。「集団主義と個人主義の差かもしれない」
「どう乗り越える?」
「対話の文化を変えていくしかない。一人ずつ」
サイモンが笑った。「壮大だな」
「哲学は壮大だ」
「じゃあ、無知を認めた後は?」
レンが指を立てた。「学習だ。知らないことを知った後、調べる、聞く、考える」
「無知は終点じゃなく、起点?」
「まさに。ソクラテスはそこから出発した」
サイモンが窓の外を見た。「知らないことを認めるのは、勇気がいる」
「勇気と謙虚さ」レンが付け加えた。
「謙虚さは弱さじゃない?」
「強さだ。自分の限界を知る強さ」
「矛盾してない?強さで弱さを認める」
「矛盾してる。でも、それが人間だ」レンが微笑んだ。
サイモンが立ち上がった。「今日は良い議論だった」
「同意する」
「一つ質問」
「どうぞ」
「レン、君は本当に『知らない』と言うのが得意なのか、それとも知ってることが少ないだけなのか?」
レンが爆笑した。「良い質問だ。答えは、知らない」
二人は笑いながら部屋を出た。無知の自覚が、知恵への第一歩だ。