「なんで、わかってほしいんだろう」
晴が小さく言った。
乃愛が静かに顔を上げた。「誰に?」
「誰かに。みんなに」晴が自分でも驚いた顔をした。「理解されたいって、なんでこんなに強い欲求なの?」
蓮が本を置いた。「存在の確認だと思う」
「存在の確認?」
「自分が理解されることで、自分の存在が他者に認識される。それが安心感を生む」
乃愛が補足した。「逆に言えば、理解されないことは、存在を否定される感覚に近い」
晴がゆっくり頷いた。「見えない存在みたいに感じる」
「そう。だから、理解されたい欲求は根源的だ」蓮が言った。
「でも」晴が考え込んだ。「完全に理解されることって、可能なの?」
乃愛が微笑んだ。「難しい質問だね」
「他者は他者だ」蓮が言った。「完全な理解は、論理的に不可能かもしれない」
「どうして?」
「君の経験、感覚、記憶。それらは君だけのもので、完全に共有できない」
乃愛が付け加えた。「言葉は翻訳だから。内面を言語化した瞬間、何かが失われる」
晴が悲しそうに言った。「じゃあ、私たちは永遠に孤独?」
「ある意味でそうだ」蓮が認めた。「でも、それは悲観すべきことじゃない」
「え?」
「完全な理解は不可能でも、部分的な理解は可能だ。そして、その部分が意味を持つ」
乃愛が穏やかに言った。「むしろ、完全に理解されることは怖いかもしれない」
晴が驚いた。「なんで?」
「全てを知られることは、無防備になること。秘密や矛盾も含めて、全部」
「確かに」晴が納得した。「恥ずかしい部分もある」
蓮が整理した。「だから、理解されたい欲求と、隠したい欲求は矛盾しない。どちらも自己防衛だ」
「理解されることも、防衛?」
「そう。適度に理解されることで、孤独から守られる。でも、適度に隠すことで、傷つきから守られる」
乃愛が別の角度から言った。「でも、本当に求めているのは『理解』じゃなくて『承認』かもしれない」
晴が聞いた。「違うの?」
「理解は認識。承認は肯定」蓮が説明した。「理解されても、否定されることはある」
「じゃあ、私たちが欲しいのは?」
乃愛が静かに答えた。「理解された上で、受け入れられること」
晴が深く頷いた。「欠点も含めて」
「そう。それが承認だ」
蓮が続けた。「でも、承認を求めすぎると、自分を偽る危険がある」
「どういうこと?」
「相手に合わせて、本当の自分を隠す。承認されるために」
乃愛が悲しそうに言った。「そして、偽りの自分が承認されても、本当の自分は孤独なまま」
晴が考え込んだ。「じゃあ、どうすればいい?」
「バランスだ」蓮が答えた。「理解されたい欲求を認めつつ、完全な理解は期待しない」
「難しい」
乃愛が微笑んだ。「でも、その難しさを分かち合える人がいれば、それだけで十分じゃないかな」
「分かち合う?」
「完全には理解し合えないという事実を、一緒に受け入れること」
晴がゆっくり頷いた。「それも、理解の形?」
「そう」蓮が認めた。「限界を知ることも、理解だ」
乃愛が最後に言った。「理解されたい欲求は消えない。でも、その欲求と付き合う知恵は育てられる」
晴が窓の外を見た。「少しだけ、わかった気がする」
「それで十分」蓮が静かに言った。
三人は静かに微笑んだ。完全な理解は幻想だけど、不完全な理解は現実だ。そして、それは思ったより温かいものだと知った。