「あれ?色が変わった!」
透真が試験管を振りながら叫んだ。
「また何かやったの?」奏が覗き込む。
「ちょっと酸を入れただけだよ。そしたら青から赤に…」
零がメガネを押し上げた。「pH指示薬だね。水素イオン濃度が変わると、分子の構造が変化する」
「水素イオン?」奏が首を傾げた。
「H⁺のこと。酸性溶液にはこれが多い」透真が説明した。
零が補足した。「正確には、pHは水素イオン濃度の負の対数。pH = -log[H⁺]」
「対数?」
「つまり、pHが1下がると、H⁺は10倍になる」
奏がノートに書いた。「じゃあ、pH 7からpH 5は、100倍?」
「その通り。だからpHの小さな変化が、大きな影響を及ぼす」
透真が別の試験管を取り出した。「じゃあ、これにも酸を入れてみよう」
「待って」零が止めた。「それは酵素反応の実験だろ?pHを変えたら、反応が止まるかもしれない」
「止まる?」奏が驚いた。
「酵素はpHに敏感だ。最適pHから外れると、活性が落ちる」
透真が興味を示した。「なんで?」
零がホワイトボードに図を描いた。「酵素はタンパク質。アミノ酸残基が正に帯電したり、負に帯電したりする」
「帯電?」
「pHが変わると、H⁺の濃度が変わる。すると、-COOHがCOO⁻になったり、-NH₂がNH₃⁺になったりする」
奏が理解した。「電荷が変わると、形も変わる?」
「そう。静電的な相互作用が変化して、タンパク質の立体構造が変わる」
透真がつぶやいた。「だから酵素が働かなくなるのか」
「胃のペプシンはpH 2で働くけど、腸のトリプシンはpH 8。環境に適応してる」
奏が質問した。「じゃあ、細胞の中のpHは?」
「細胞質はpH 7.4くらい。でも、胃の中はpH 2、血液もpH 7.4」零が答えた。
「そんなに違うのに、なんで一定なの?」
「緩衝液のおかげ」零が静かに言った。
「緩衝液?」
透真が試薬棚から瓶を取った。「これだ。リン酸緩衝液、PBS」
零が説明した。「弱酸とその塩の混合物。酸を加えても、塩基を加えても、pHがあまり変わらない」
「どうして?」奏が尋ねた。
「平衡が移動するから。酸が加わると、塩基成分が中和する。塩基が加わると、酸成分が中和する」
透真が実験した。「じゃあ、これに酸を入れてみよう」
数滴入れても、pH計の値はほとんど動かなかった。
「すごい…守られてる」奏が感心した。
零が頷いた。「生体内には、重炭酸緩衝系、リン酸緩衝系、タンパク質緩衝系がある」
「タンパク質も緩衝液になるの?」
「アミノ酸残基が、H⁺を受け取ったり、放出したりできるから」
透真が窓の外を見た。「血液のpHが0.1変わるだけで、危険なんだよね」
「アシドーシスやアルカローシス。pHが7.35以下か7.45以上になると、生命に関わる」
奏が驚いた。「たった0.1?」
「それだけ、生化学反応は繊細だ」零が静かに言った。
透真が試験管を光にかざした。「pHが変わると、世界も変わるんだな」
「酵素、タンパク質、DNA…すべてがpHに依存してる」
奏がつぶやいた。「見えない世界の、見えないバランス」
零が微笑んだ。「だから緩衝液が、生命を支えている」
三人は実験台の前で、色の変わった試験管を見つめた。
透真が言った。「次からは、pHを測ってから実験するよ」
「それが賢明だ」零が認めた。
奏がノートを閉じた。「pHが世界を決める」
試験管の中で、分子たちは静かに平衡を保っていた。