「紫色が消えた…」
奏がビーカーを見つめた。透真が入れた過マンガン酸カリウムの鮮やかな紫が、透明になっていく。
「酸化還元反応だ」零が説明した。「過マンガン酸イオンが、電子を奪ってる」
透真が興奮した。「色が変わるって、かっこいい!」
「なんで紫なの?」奏が聞く。
零が図を描いた。「マンガンの酸化数が+7。この状態のMnO4-が紫色の光を吸収する」
「酸化数?」
「電子の帰属状態。マンガンから見た、電子の数え方」
透真が補足した。「+7ってことは、電子が足りない状態。だから電子を欲しがる」
「電子を欲しがる?」奏が笑った。
「酸化剤の本質だ」零が真剣に言った。「相手から電子を奪う物質」
奏がノートに書いた。「酸化剤=電子を受け取る」
「そう。逆に、電子を渡す方が還元剤」
透真が別の試薬を加えた。「シュウ酸を入れてみよう」
紫色がさらに薄くなる。
「シュウ酸が電子を渡した」零が説明した。「マンガンの酸化数が+7から+2に下がる」
「+2?」
「Mn2+。無色の状態」
奏が理解した。「だから透明になった」
「正確には淡いピンク」透真が訂正した。「でも、紫に比べたら見えない」
零が反応式を書いた。「MnO4- + 8H+ + 5e- → Mn2+ + 4H2O」
「八つの水素イオンと五つの電子が必要」
奏が計算した。「五つも電子を受け取るの?」
「+7から+2だから、五つの電子が移動する」
透真が付け加えた。「だから過マンガン酸は強力な酸化剤なんだ」
「強力?」
「電子を奪う力が強い。相手を酸化する能力が高い」
奏が質問した。「電子が移動するとき、どうなるの?」
零が考えた。「物理的には、軌道が変わる。シュウ酸の電子が、マンガンの軌道に入る」
「軌道?」
「電子が存在できる領域。原子ごとに形が違う」
透真が実験を続けた。「pH を変えてみよう」
酸性溶液では紫が速く消え、中性では遅い。
「pHで反応速度が変わる」奏が気づいた。
「そう。反応式を見て」零が指差した。「H+が反応に必要だから」
「水素イオンが多いと、反応が進みやすい?」
「正確。H+が反応の駆動力の一部になってる」
透真が別の試薬を出した。「今度は鉄イオンで」
緑色の溶液に過マンガン酸を加える。紫がまた消える。
「Fe2+が Fe3+に酸化された」零が説明した。
奏がパターンに気づいた。「過マンガン酸は、いつも電子を奪ってる」
「その通り。だから冷たい視線なんだ」透真が詩的に言った。
「冷たい?」
「容赦なく電子を奪う。相手の状態を変えてしまう」
零が頷いた。「酸化とは、電子を失うこと。物質の性質が変わる瞬間だ」
奏がビーカーの中を見つめた。見えない電子の流れ。
「電子って、本当に移動してるの?」
「量子力学的には複雑」零が認めた。「でも、酸化数の変化として観測できる」
透真が笑った。「見えないものを、色で見る。化学の美しさだ」
奏がつぶやいた。「紫の視線は、電子を見抜いてた」
「そして奪う」零が静かに言った。
三人は、目に見えない電子の旅を思い描いた。過マンガン酸の紫色は、電子への飢えの色だった。