「こっちは電子を失って、あっちは電子を得て…」
奏が代謝経路図を睨んでいた。
「酸化と還元は、いつも一緒」零が言った。「でも、すれ違うドラマみたいだ」
「すれ違い?」透が興味を持った。
「一方が犠牲になって、もう一方が利益を得る。でも両者がいないと反応は起きない」
奏が図を指差した。「NAD+ってよく出てくるけど、何?」
「ニコチンアミドアデニンジヌクレオチド。電子の運び屋だ」
零が構造を描いた。「NAD+は酸化型。電子を受け取ると、NADHという還元型になる」
「電子タクシー?」透が言った。
「良い例え。栄養素から電子を受け取って、電子伝達系まで運ぶ」
奏がノートに書いた。「NAD+ + 2e- + H+ → NADH」
「正確。このサイクルが代謝の中心にある」
透が質問した。「なんで直接、電子を渡さないの?」
零が説明した。「制御のため。NADHという形で貯めておけば、必要なときに必要な場所で使える」
「貯金?」
「そう。エネルギー貯金。NADHは高エネルギー分子だ」
奏が代謝図を見た。「解糖系でNADHが作られて、電子伝達系で使われる…」
「まさに。栄養素の酸化で得た電子を、最終的に酸素へ渡す。その途中でATPを作る」
透が考え込んだ。「じゃあ、呼吸って、電子の旅?」
「詩的だが正確」零が微笑んだ。「グルコースから酸素への電子の旅。その経由地がNADH」
奏がふと思いついた。「還元されると、どうしてエネルギーが高くなるの?」
「電子が高いエネルギー準位にあるから。ポテンシャルエネルギーみたいなもの」
零がエネルギー図を描いた。「栄養素の電子は高エネルギー。酸素に渡ると低エネルギー。その差がATP合成に使われる」
透が手を叩いた。「滝みたい!水が高いところから低いところへ落ちる」
「まさに。電子の滝。その落差でタービンを回す」
奏が別の分子を指差した。「FADって?」
「フラビンアデニンジヌクレオチド。もう一つの電子キャリア」
「NADと何が違うの?」
「結合の強さと場所。FADはミトコンドリア膜に結合してることが多い」
零が補足した。「FADH2はNADHより少しエネルギーが低い。だからATPの生産量も少し少ない」
透が混乱した。「複雑すぎる…」
「でも原理は同じ。電子を受け取って運ぶ」
奏が考えた。「じゃあ、抗酸化物質って、どういう意味?」
零の目が輝いた。「鋭い質問。フリーラジカルから電子を引き抜かれるのを防ぐ物質だ」
「フリーラジカル?」
「不対電子を持つ、不安定な分子。他から無理やり電子を奪い取る」
「悪者?」
「ある意味ね。DNAやタンパク質を傷つける。でも、免疫システムでは武器にもなる」
奏がビタミンCを思い出した。「ビタミンCは抗酸化物質?」
「そう。自分が酸化されることで、他の分子を守る」
透が感動した。「身代わりなんだ」
「犠牲的酸化。美しい戦略だ」
零がホワイトボードに全体図を描いた。栄養素、NAD+、NADH、酸素、水。矢印が複雑に交差する。
「酸化還元は、生命の基本原理。電子をめぐる永遠のドラマ」
奏がつぶやいた。「あげて、もらって、また渡して…」
「でもすれ違う。電子を渡す側と受け取る側は、決して同じにはなれない」
透が図を見つめた。「切ないな」
「でも、そのすれ違いが生命を生む」零が静かに言った。
奏が微笑んだ。「化学って、物語なんだ」
「最も古い物語。電子が語る、宇宙の歴史」
三人は図を見つめた。酸化と還元。与えることと受け取ること。永遠に続く、分子のダンス。
「美しいすれ違い」透がつぶやいた。
零と奏も頷いた。化学は、ドラマだ。