「できない」
ミラが筆を置いた。キャンバスは半分白いままだ。
空が静かに近づいた。「何が?」
「絵が。前は描けたのに」
日和が横に座った。「いつから描けなくなりました?」
「コンテストに落ちてから」ミラが小さく答えた。
空がノートを開いた。「自信を失ったんですね」
「うん」
日和が優しく聞いた。「落選は初めて?」
「いや。でも、これは特別だった」ミラが続けた。「先生が『君なら取れる』って言ってた賞」
空が考え込んだ。「期待が大きかっただけに、失望も大きかった」
「それで絵が描けなくなる?」
「心理学では、これを学習性無力感と呼びます」日和が説明し始めた。
「学習性無力感?」
「マーティン・セリグマンの研究です。繰り返し失敗を経験すると、努力しても無駄だと学習してしまう」
空が補足した。「一度の大きな失敗でも、同じ効果が起きることがあります。特に、期待が高かった場合」
ミラが考えた。「じゃあ、もう描けないの?」
「いいえ」日和が首を振った。「逆のプロセスもあります。自己効力感の回復です」
「自己効力感?」
空が説明した。「アルバート・バンデューラの理論。『自分にはできる』という信念のことです」
「どうやって回復する?」
日和が四つの指を立てた。「バンデューラは、四つの源泉を挙げています」
「一つ目は、成功体験。実際にできたという経験」
「でも、今はできない」ミラが言った。
「だから小さく始めるんです」空が提案した。「大作ではなく、スケッチから」
日和が二つ目を言った。「代理経験。他者の成功を見ること」
「誰かが描いているのを見る?」
「そう。特に、自分と似た状況の人が成功する姿を見ると、効果的です」
空が三つ目を説明した。「言語的説得。誰かに励まされること」
「『できるよ』って言われること?」
「ただし、根拠のない励ましは逆効果」日和が警告した。「具体的な強みを指摘してもらう必要があります」
ミラが聞いた。「四つ目は?」
「生理的・情動的状態」空が答えた。「リラックスしていると、自信が湧きやすい」
「今は緊張してる」
「それが問題かもしれません」日和が言った。「失敗への恐怖が、パフォーマンスを下げている」
空が図を描いた。「心理学では、ヤーキーズ・ドッドソンの法則があります」
「何それ?」
「適度な緊張はパフォーマンスを上げるけど、過度な緊張は下げる」
ミラが頷いた。「筆を持つと、手が震える」
「それは過緊張です」日和が診断した。「評価への恐怖が、創造性を阻害している」
「どうすれば?」
空が提案した。「評価から解放される場を作りましょう」
「どうやって?」
「誰にも見せない絵を描く。失敗しても良い絵を」
日和が加えた。「プロセスを楽しむことに集中する。結果は二の次」
ミラがスケッチブックを取り出した。「今、描いてみる?」
「何を描きたいですか?」空が聞いた。
「...花」
「じゃあ、制限時間五分で花を描いてみましょう」日和が提案した。「完成度は問わない。ただ描く」
ミラが鉛筆を握った。最初は躊躇していたが、だんだん手が動き始めた。
五分後。
「できた」
空が見た。「良いじゃないですか」
「でも、下手だ」
「評価しない約束でしたよ」日和が微笑んだ。「どう感じましたか?」
「...少し楽しかった」
「それが大切です」空が言った。「完璧を求めず、プロセスを楽しむ」
日和が続けた。「自信は、小さな成功の積み重ねで戻ってきます」
「今日の五分は、一つの成功です」
ミラが驚いた。「これが成功?」
「筆を持ち、描き、完成させた。立派な成功です」
空が励ました。「明日はもう一枚。毎日少しずつ」
「完璧じゃなくていい?」
「完璧主義は、自信の敵です」日和が答えた。「進歩主義を目指しましょう。昨日より少しだけ良ければいい」
ミラがスケッチを見つめた。「自信喪失の裏側に、完璧主義があった」
「気づけたことが、回復の第一歩です」
空が付け加えた。「そして、自信は行動から生まれる。考えるだけでは戻らない」
ミラが新しいページを開いた。「もう一枚、描いてみる」
日和と空が微笑んだ。
「ゆっくりで大丈夫です」
「一歩ずつ、自信は戻ってきます」
ミラの手が、再び動き始めた。完璧ではないけれど、確かな一歩。それが自信回復への道だと、三人は知っていた。