深夜の学生ラウンジ。ミラが一人、窓際に座っていた。
空が通りかかった。「ミラさん、眠れないんですか?」
ミラが小さく頷く。いつもより顔色が悪い。
レオが本を抱えて入ってきた。「Oh, you two are here too」
「レオさん、日本語で大丈夫ですよ」空が言った。
「練習になるから」レオが座った。「でも、深夜勉強組?」
空が首を振った。「ミラさんが眠れないみたいで」
レオがミラを見た。「何かあった?」
ミラが少し躊躇してから書いた。「古い記憶が戻ってくる」
「フラッシュバック?」空が聞いた。
ミラが頷いた。
レオが真剣な表情になった。「トラウマ記憶について、心理学の授業で習った」
「どんな?」空が聞く。
「普通の記憶と違って、トラウマ記憶は感覚的で断片的。まるで今起こっているように感じる」
ミラがノートに書いた。「時間が止まっている感じ」
「そう」レオが頷いた。「海馬の機能が低下して、記憶が適切に処理されない。だから、過去と現在が混ざる」
空が考えた。「でも、なぜ夜に来るんですか?」
「防衛機能が下がるから」レオが説明した。「昼間は忙しくて、抑えている。夜、静かになると浮かんでくる」
ミラが静かに言った。「逃げられない」
空が優しく聞いた。「何から逃げられないの?」
「過去の自分。傷ついた時の感情」
レオが本を開いた。「心理学では、回避行動という概念がある。でも、回避すればするほど、記憶は強くなる」
「なぜ?」空が不思議そうに聞く。
「抑圧された感情は、処理されないまま残る。そして、思いがけない時に表面化する」
ミラがじっと聞いていた。
空が尋ねた。「じゃあ、どうすればいいんですか?」
レオが慎重に答えた。「専門家の助けが必要な場合もある。でも、基本は感情を認めること」
「認める?」
「傷ついた。怖かった。悲しかった。その感情を否定せずに、存在を認める」
ミラがノートに書いた。「でも、認めたら負けた気がする」
「それは違う」レオが言った。「認めることは、弱さじゃない。勇気だ」
空が補足した。「感情に名前をつけると、少し距離ができるって聞いたことがあります」
「感情のラベリング」レオが認めた。「有効な技法だ」
ミラがゆっくり書いた。「今、私は不安を感じている」
「良い」レオが頷いた。「それだけで、少し客観性が生まれる」
空が聞いた。「過去の傷は、完全に消えるんですか?」
レオが首を振った。「消えない。でも、関係性を変えられる」
「関係性?」
「傷が自分の全てではなく、自分の一部になる。そして、その経験から学んだことも含めて、自分を理解する」
ミラが静かに言った。「統合」
「そう。心理学では外傷後成長という概念もある」レオが続けた。「傷を通して、より深い自己理解や共感力を得る」
空がミラを見た。「ミラさん、今こうして話してくれてるだけで、すごいことだと思います」
ミラが微かに微笑んだ。
レオが言った。「回復は直線じゃない。波のように、良い日も悪い日もある」
「今日は悪い日?」空が聞いた。
「たぶん」ミラが書いた。「でも、話せて少し楽になった」
空が提案した。「今夜は無理に寝ようとしないで、ここにいませんか?」
レオが賛成した。「孤独は記憶を強くする。誰かといることは、助けになる」
ミラが頷いた。三人は静かに座った。
「過去の傷は、時々語りかけてくる」レオがゆっくり言った。「でも、それは敵じゃない。自分の一部だ」
空が窓の外を見た。「夜明けは必ず来ますね」
ミラがノートに書いた。「ありがとう」
言葉は少なくても、その夜、三人の間には静かな理解があった。過去の傷が語りかける夜も、一人じゃない。