「夜になると、膨らむの?」
奏が顕微鏡写真を見つめた。細胞の中に、白い球体。
「脂肪滴」ミリアが答えた。「夕食後、数時間で大きくなる」
「なんで夜?」
「余ったエネルギーを貯蔵するから。昼間は消費、夜は貯蔵」
透真が興味を示した。「脂肪滴って何でできてる?」
「中性脂肪。トリアシルグリセロールだ」
奏がノートに書いた。「トリアシルグリセロール?」
「グリセロールに三つの脂肪酸が結合したもの」ミリアが図を描いた。
「なんで三つ?」
「グリセロールに三つのヒドロキシ基があるから。各々に脂肪酸がエステル結合する」
透真が聞いた。「脂肪酸って何?」
「長い炭化水素鎖とカルボキシ基。疎水性が高い」
「疎水性?」
「水を嫌う。だから水溶液中で集まる」
奏が理解した。「だから滴になる?」
「正確。細胞質は水性。脂質は水に溶けないから、別相を作る」
ミリアが続けた。「脂肪滴の表面には、タンパク質の膜がある」
「膜?」
「ペリリピン。脂肪滴を安定化させる」
透真が質問した。「どうやって膨らむの?」
「脂肪酸合成。アセチルCoAから、炭素二つずつ伸ばしていく」
「二つずつ?」
「脂肪酸合成酵素が、マロニルCoAを使って鎖を伸ばす」
奏が混乱した。「アセチルCoA?」
「糖や脂質、アミノ酸の分解産物。代謝の中心」ミリアが説明した。
「中心?」
「多くの経路が、アセチルCoAを経由する。クエン酸回路に入る入口でもある」
透真が興奮した。「じゃあ、糖が脂肪になる?」
「その通り。過剰な糖は、脂肪酸に変換されて貯蔵される」
奏がつぶやいた。「だから食べ過ぎると太る…」
「生物学的には正しい戦略。飢餓に備えるため」
ミリアが別の話題に移った。「逆に、脂肪滴が縮む時もある」
「いつ?」
「空腹時。脂肪酸を分解してエネルギーを得る」
「どうやって?」
「リパーゼが中性脂肪を加水分解。脂肪酸とグリセロールに分ける」
透真が聞いた。「脂肪酸をどう使う?」
「ベータ酸化。ミトコンドリアで、二炭素ずつ切り離す」
「また二つずつ?」
「そう。アセチルCoAができる。これがクエン酸回路に入る」
奏が感動した。「合成も分解も、二炭素単位?」
「対称性がある。効率的なシステムだ」
ミリアが強調した。「脂質は最も効率的なエネルギー貯蔵形態」
「なんで?」
「一グラムあたり9キロカロリー。糖質やタンパク質は4キロカロリー」
「倍以上!」
「しかも疎水性だから、水和しない。重量あたりのエネルギー密度が高い」
透真がつぶやいた。「だから渡り鳥は脂肪を貯める」
「長距離飛行のため。最小の重量で最大のエネルギー」
奏が顕微鏡写真を見直した。「この小さな滴に、すごいエネルギー?」
「何万個もあれば、相当量だ」
ミリアが付け加えた。「褐色脂肪組織は別。熱を生産する」
「熱?」
「ミトコンドリアで、脂肪酸を燃やして熱に変える。赤ちゃんや冬眠動物に多い」
透真が笑った。「脂肪滴、ただの貯蔵庫じゃない」
「代謝の要。シグナル分子も放出する」
奏が感心した。「夜、膨らむのにも意味がある」
「生命のリズム。概日時計が脂質代謝も制御してる」
ミリアが静かに言った。「脂肪滴は、エネルギーの銀行」
「預金と引き出し?」
「そう。生命の経済システム」
透真が窓の外を見た。夜が深まっていく。
「今も、体中で脂肪滴が膨らんでる?」
「確実に」ミリアが微笑んだ。
「脂肪滴の夜」奏がつぶやいた。
三人は、見えない代謝のリズムを感じた。