「聞こえた?今の」
陸が部室のドアを開けながら叫んだ。外は強い雨だった。
「何も聞こえなかった」由紀が答えた。
「だよね!雨の音がうるさすぎて」
葵が窓を閉めた。「これが通信におけるノイズだ。信号を邪魔する、望まない音や乱れ」
「雨もノイズなんですか?」由紀が驚いた。
「音響的にはね。情報理論では、ノイズは伝達を妨げるあらゆる要因だ」
陸が考え込んだ。「でも、うるさい場所でも会話できるよね?」
「そう。それは人間の脳が優れたノイズ除去機能を持っているから。それと、自然言語の冗長性のおかげだ」
葵はホワイトボードに図を描いた。
「S/N比、つまり信号対雑音比。信号の強さとノイズの強さの比率だ」
「信号が強ければ、ノイズに負けない?」
「基本的にはそう。でも、信号を無限に強くはできない。電力やコストの制約がある」
陸が手を挙げた。「じゃあ、ノイズが増えたらどうする?」
「良い質問だ。シャノンが証明した驚くべき定理がある。ノイズがあっても、ある速度以下なら、誤りなく通信できる」
「本当に?」由紀が信じられない顔をした。
「シャノンの通信路容量定理。C = B log₂(1 + S/N)。Bは帯域幅、S/Nは信号対雑音比」
陸が計算を試みた。「S/Nが大きいほど、容量Cも大きい…」
「そして、容量以下の速度で情報を送れば、適切な符号化で誤り率を限りなくゼロに近づけられる」
由紀が考えた。「でも、ノイズが増えたら容量は減りますよね?」
「そう。log(1 + S/N)は、Nが増えると減る。だから、ノイズが多い環境では、ゆっくり送る必要がある」
陸が突然笑い出した。
「どうした?」葵が不思議そうに聞く。
「さっき、雨の音で俺の声が聞こえなかったけど、今考えたら面白いじゃん。ノイズが増えると、伝達速度を落とさなきゃいけない。だから俺、もっと大きな声でゆっくり話すべきだった!」
由紀も笑った。「確かに。陸くん、いつも早口だもんね」
「ノイズの多い環境では、ゆっくり明瞭に話す。これは本能的に理解してる原理だ」葵が微笑んだ。
「ねえ、でもさ」陸が続けた。「ノイズって悪いものだけじゃないよね?」
「どういう意味?」
「だって、ノイズがあるから面白いことも起きる。聞き間違いで笑ったり、予想外の展開になったり」
葵が考え込んだ。「哲学的だけど、一理ある。完璧な通信は効率的だが、面白みに欠けるかもしれない」
由紀が頷いた。「人間関係も、ちょっとした誤解やノイズがあるから深まるのかも」
「情報理論の枠を超えた洞察だね」葵が認めた。「でも、確かに適度なノイズは、システムを頑健にする効果もある」
「頑健?」
「ノイズに対処するために冗長性を加える。それが予期しない障害にも強くなる」
陸が窓の外を見た。雨はまだ降っている。
「じゃあ、この雨も悪くないってこと?」
「通信の観点では障害だけど、植物や自然には必要。視点によって、ノイズか信号かは変わる」
由紀が感心した。「一つの現象を、どう見るか」
外の雨音が少し小さくなった。三人は静かにその音を聞いた。
「S/N比が改善した」葵が言った。
「でも、完全な静寂より、ちょっとノイズがある方が落ち着く」陸が笑った。
「ノイズが増えるときほど笑える、か」由紀がタイトルのように呟いた。
三人の笑い声が、雨音と混ざり合った。それもまた、美しい信号だった。