「昨日まで大丈夫だったのに」
ミラが震える声で言った。部室の隅で膝を抱えている。
日和が静かに近づいた。「何があったんですか?」
「わからない。急に、全部が崩れた気がして」
空が観察していた。ミラの呼吸が浅く、速い。
日和が穏やかに言った。「深呼吸してみましょう。ゆっくり、吸って、吐いて」
ミラが従った。少しずつ、呼吸が整っていく。
「バランスを崩したんですね」日和が優しく言った。
「バランス?」ミラが聞いた。
空が説明した。「心には平衡状態があります。ストレスがその均衡を崩すことがあります」
「ストレス?でも、特別なことは何もなかった」
日和が頷いた。「大きな出来事だけがストレスではありません」
「どういうこと?」
「小さなストレスが積み重なって、ある瞬間に臨界点を超える」空が補足した。
ミラが考えた。「最後の一滴が、コップを溢れさせる?」
「まさにそれです」日和が微笑んだ。「ストレスのコップ理論ですね」
空が詳しく説明した。「日々の小さなストレスが蓄積して、ある時点で対処能力を超える」
「でも、昨日までは大丈夫だった」ミラが言った。
「それは、対処していたからです」日和が答えた。「意識的でも無意識的でも」
「対処?」
空が聞いた。「ミラさんは最近、いつもより睡眠時間が短くありませんか?」
ミラがハッとした。「そういえば、試験前で徹夜が続いてた」
「睡眠不足は、ストレス耐性を下げます」空が指摘した。
日和が続けた。「他には?食事は?運動は?」
「食事は適当。運動は全然してない」
「身体的なリソースが枯渇していたんですね」日和が診断した。
空が説明した。「心と体は分離できません。身体的疲労は、精神的脆弱性につながります」
ミラが俯いた。「自分で自分を追い込んでた」
「気づくことが大切です」日和が励ました。
空が聞いた。「ミラさんは、どうやってストレスに対処していましたか?」
ミラが考えた。「対処?してなかった気がする」
「無意識の対処法もあります」日和が言った。「例えば、絵を描くとか」
「最近、描いてない。時間がなくて」
空が指摘した。「ストレス対処法を失っていたんですね」
日和が静かに言った。「心理学では、コーピング戦略といいます」
「コーピング?」
「ストレスに対処する方法です。問題解決型と感情調整型があります」
空が例を出した。「問題解決型は、ストレス源を取り除く。感情調整型は、感情を和らげる」
ミラが聞いた。「どちらが良いの?」
「状況によります」日和が答えた。「変えられるものは問題解決、変えられないものは感情調整」
空が補足した。「セリグマンの『変えられるものと、変えられないもの』の知恵ですね」
ミラが考えた。「試験のストレスは、変えられない?」
「試験自体は変えられません」日和が言った。「でも、準備の仕方や、捉え方は変えられます」
「捉え方?」
空が説明した。「『絶対に成功しなければ』と考えるか、『最善を尽くそう』と考えるか」
ミラが頷いた。「前者で考えてた」
「それは、認知的ストレスを増やします」日和が指摘した。
空が続けた。「完璧主義は、心のバランスを崩しやすい思考パターンです」
ミラが静かに言った。「私、いつも完璧を求めてる」
「なぜですか?」日和が優しく聞いた。
「完璧じゃないと、価値がないと思ってた」
日和が頷いた。「それは辛いですね。常に緊張状態にいることになります」
空が言った。「レジリエンス、という概念があります」
「レジリエンス?」
「回復力。困難から立ち直る力です」日和が説明した。
「私には、ない」ミラが俯いた。
「誰にでもあります」空が否定した。「今ここにいることが、その証拠です」
ミラが顔を上げた。
「バランスを崩しても、また戻ろうとしている。それがレジリエンスです」
日和が微笑んだ。「完璧に崩れないことではなく、崩れても戻れることが強さです」
ミラが考えた。「崩れてもいいの?」
「人間だもの」空が言った。「完璧な人なんていません」
日和が提案した。「バランスを保つための、セルフケアを考えましょう」
「セルフケア?」
「自分を大切にすること。睡眠、食事、運動、趣味、人とのつながり」
空が補足した。「ストレスバケツを空にする活動です」
ミラがノートを取り出した。「何から始めれば?」
「小さく始めましょう」日和が言った。「今夜は早く寝る、とか」
「絵を描く時間を作る」空が提案した。
ミラが書き込んだ。「一日10分でも?」
「それで十分です」日和が励ました。「積み重ねが大切です」
空が静かに言った。「心のバランスを崩す瞬間は、誰にでもあります」
「でも」日和が続けた。「それは失敗ではなく、休息のサインです」
ミラが涙を拭いた。「休んでいいんですね」
「休むことも、大切な仕事です」
空が窓の外を見た。「木は、嵐で揺れても、柔軟性があるから折れません」
「柔軟性」ミラが呟いた。
日和が微笑んだ。「完璧に立ち続けることより、倒れても起き上がることが大切です」
ミラが深く息を吐いた。「ありがとう。少し、楽になった」
「いつでも頼ってください」日和が言った。
空が頷いた。「一人で抱え込まないでください」
ミラが微笑んだ。小さいけれど、本物の笑顔だった。
心のバランスを崩す瞬間。それは弱さの証明ではなく、人間らしさの表れ。大切なのは、崩れないことではなく、また立ち上がること。
窓の外、風が吹いていた。木々が揺れる。でも、折れない。柔らかく、しなやかに。