「また断れなかった」
日和が小さく呟いた。部室で、空と海斗が振り向いた。
「何をですか?」空が聞いた。
「クラスの手伝い。本当は今日、用事があったのに」
海斗が首をかしげた。「なんで断らないの?」
「断ったら、困る人がいるから」日和が答えた。
空が静かに言った。「でも、日和さんも困ってますよね?」
日和が言葉に詰まった。「私の都合より、相手の方が大切だと思って」
「それ、自己犠牲じゃない?」海斗が率直に言った。
「自己犠牲...」日和が繰り返した。
空がノートを開いた。「心理学では、過度の共感は共感疲労を引き起こすと言われています」
「共感疲労?」
「他者の感情に寄り添いすぎて、自分のエネルギーを使い果たす状態です」
日和が窓の外を見た。「確かに、最近疲れてる」
海斗が言った。「優しいのは良いことだけど、限度があるだろ」
「でも、断ると自分が悪い人間のように感じる」日和が告白した。
空が理解を示した。「罪悪感ですね。多くの人が同じように感じています」
「なぜそう感じるんでしょう?」
「いくつか理由があります」空が説明し始めた。「一つは、幼少期の学習。『良い子』は他者を優先すると教えられた」
日和が頷いた。「親によく言われました。『わがままを言わない』って」
「もう一つは、承認欲求。人に好かれたい、嫌われたくないという気持ち」
海斗が理解した。「だから、頼まれると断れない」
「そう。でも、それが続くと...」空が続けた。「自分の境界線が曖昧になります」
「境界線?」日和が聞き返した。
「自分と他者の区別。どこまでが自分の責任で、どこからが相手の責任か」
「私には、それがない気がします」日和が認めた。
空が真剣に言った。「境界線がないと、他者の問題が自分の問題になる。抱えきれないほど重くなります」
海斗が口を開いた。「俺、よく日和に頼るけど、それって良くないのか?」
日和が慌てた。「いえ、海斗さんは全然!」
「でも、今の話だと...」
空が仲介した。「問題は、日和さんが自分の限界を伝えられないこと。海斗さんが悪いわけじゃありません」
「限界を伝える」日和が呟いた。
「アサーティブネスという概念があります」空が教えた。「自分の気持ちや考えを、相手を尊重しながら伝えること」
「それができれば苦労しない」日和が苦笑した。
「難しいですよね。でも、練習はできます」
海斗が提案した。「じゃあ、今ここで練習してみたら?」
「え?」
「俺が何か頼む。日和が断る。どう?」
日和が緊張した顔になった。「やってみます」
海斗が演技を始めた。「日和、明日の委員会、代わりに出てくれない?」
日和が口を開いた。「あの...明日は...」
言葉が続かない。
空が助け舟を出した。「まず、相手の要求を認めます。『頼んでくれてありがとう』」
日和が繰り返した。「頼んでくれてありがとう」
「次に、自分の状況を説明。『でも、明日は予定があって』」
「でも、明日は予定があって」
「最後に、代替案か断りを伝える。『今回は難しい』または『別の日ならできる』」
日和が深呼吸した。「今回は難しい。ごめんなさい」
海斗が拍手した。「完璧!全然嫌な感じしなかった」
「本当?」日和が驚いた。
「うん。ちゃんと理由があれば、断られても仕方ないって思う」
空が微笑んだ。「断ることは、相手を傷つけることではありません。自分を守ることです」
日和が考え込んだ。「でも、優しくありたいという気持ちは変わらない」
「変える必要はありません」空が言った。「ただ、優しさの方向を調整する。他者だけでなく、自分にも優しくする」
「自分にも優しく」
「そう。自己犠牲は、長期的には誰のためにもならない。疲れ果てた人は、他者を助けられません」
海斗が真面目に言った。「俺、日和が無理してるの、気づいてなかった。ごめん」
「いえ、私が言わなかったから」
空がまとめた。「コミュニケーションは双方向です。伝えないと、相手は分からない」
日和が決意した表情を見せた。「これから、少しずつ伝えるようにします」
「焦らなくていいですよ」空が励ました。「小さな一歩から」
海斗が笑った。「じゃあ、次に俺が無理なこと頼んだら、ちゃんと断ってくれよ」
「はい」日和が微笑んだ。
優しすぎる自分を嫌う必要はない。ただ、その優しさを自分にも向ける。それが、本当の優しさかもしれない。