深夜二時。図書館の明かりがまだ灯っていた。
「眠い…」奏がノートに突っ伏した。
「でも、君の細胞は眠ってない」零が静かに言った。
「え?」
透真がコーヒーを飲んだ。「ミトコンドリアは、24時間働いてる」
「ミトコンドリア?」
零が図を描いた。「細胞の発電所。ATPを作り続ける」
「ATP…」奏が思い出した。「エネルギーの通貨」
「そう。筋肉を動かすのも、神経を伝わるのも、全部ATPが必要」
透真が付け加えた。「今、考えることにも使ってる」
「頭の中で?」
「脳は体重の2パーセントなのに、全ATPの20パーセントを消費する」零が説明した。
奏が驚いた。「そんなに?」
「ニューロンが信号を送るたび、イオンポンプがATPを使う」
透真が窓の外を見た。「君が眠くても、ミトコンドリアは休まない」
「どうやってATPを作るの?」奏が興味を示した。
零がノートに経路を書いた。「まず、クエン酸回路。TCAサイクルとも呼ばれる」
「回路?」
「グルコースが分解されて、アセチルCoAになる。それが回路に入る」
透真が続けた。「回路を一周するたびに、CO₂が出て、NADHやFADH₂が作られる」
「NADH?」
「電子キャリア。高エネルギーの電子を運ぶ」零が説明した。
「その電子が、どこへ?」
「電子伝達系。ミトコンドリアの内膜にある」
透真が興奮した。「ここからが面白い」
零が図を描いた。「複合体I、II、III、IV。電子がバトンリレーのように渡される」
「なんで?」奏が聞いた。
「電子が次々と渡されるたび、エネルギーが放出される。そのエネルギーでH⁺を膜の外に汲み出す」
「汲み出す?」
「能動輸送。ATP使って…いや、この場合は電子のエネルギーで」
透真が補足した。「膜の外にH⁺が溜まると、濃度勾配ができる」
「勾配?」
零が微笑んだ。「水が高いところから低いところへ流れるように、H⁺も戻りたがる」
「でも、膜を通れない?」
「通れる場所がある。ATP合成酵素」
奏がノートに書いた。「合成酵素?」
「回転する分子機械」透真が言った。「H⁺が通ると、タービンのように回転する」
「回転?」奏が信じられない顔をした。
零が認めた。「本当に回転する。1秒間に100回以上」
「その回転が、ATPを作るの?」
「ADPとリン酸を結合させる。機械的なエネルギーが化学エネルギーに変わる」
透真が感心した。「自然が作った最高のナノマシン」
奏が計算した。「それで、どれくらいATPができるの?」
「グルコース一つから、最大38ATP。でも実際は30くらい」零が答えた。
「すごい効率…」
「でも、熱も出る。それが体温になる」
透真が言った。「だから寒いとき、震えるんだ。筋肉を動かしてATPを使い、熱を出す」
奏がコーヒーカップを握った。「ミトコンドリアが、私を温めてる?」
「24時間365日」零が静かに言った。
「休まないの?」
「効率は変わる。酸素が少ないと、嫌気的解糖に切り替わる」
透真が付け加えた。「マラソン選手が、有酸素運動を重視する理由だ」
奏が質問した。「ミトコンドリアって、どこから来たの?」
「面白い質問」零が目を輝かせた。「昔、細菌だったと考えられてる」
「細菌?」
「細胞内共生説。大昔、真核細胞が細菌を取り込んで、共生した」
透真が説明した。「ミトコンドリアは独自のDNAを持ってる。母親から受け継ぐ」
「母親から?」奏が驚いた。
「卵子にはたくさんミトコンドリアがあるけど、精子にはほとんどない」
零が窓の外を見た。「君のミトコンドリアは、母親の母親の母親の…ずっと続く」
奏が胸に手を当てた。「受け継がれてきた発電所」
「そう。今この瞬間も、何兆個ものミトコンドリアが働いてる」
透真がコーヒーを飲み干した。「だから、もうちょっと頑張れる」
奏が微笑んだ。「ミトコンドリアが応援してくれてる」
零がノートを閉じた。「眠らない細胞の、眠らない物語」
三人は深夜の図書館で、また勉強に戻った。体の中で、ミトコンドリアは静かに回り続ける。