「回転してる!」
奏がATPシンターゼの動画を見ていた。
「分子モーターだ」零が説明した。「プロトンの流れで回転して、ATPを作る」
ミリアがノートを見せた。「毎秒100回転」
「そんなに速いの?」奏が驚いた。
「ミトコンドリアの内膜に埋め込まれてる。生命のエンジン」
零が図を描いた。「電子伝達系がプロトンを膜間スペースに送り出す」
「ポンプみたい」
「まさに。プロトンポンプ。エネルギーを使って、濃度勾配を作る」
奏が考えた。「高い方から低い方に流れるのが普通だけど、逆に汲み上げるんだ」
「そう。でも、その勾配がエネルギー源になる」
ミリアが式を書いた。「ΔG = RTln(c2/c1) + zFΔΨ」
「化学ポテンシャルと電気ポテンシャル」零が説明した。「両方の差が、プロトン駆動力」
「難しい…」奏がつぶやいた。
「簡単に言うと、ダムみたい」零が例えた。「電子伝達系が水を汲み上げる。ATPシンターゼが水車」
「水の落差で、発電する」
「正確。プロトンの流れで、回転する。その回転エネルギーでATPを合成する」
奏が理解し始めた。「間接的なんだ」
「そう。栄養素から直接ATPを作るんじゃない。まずプロトン勾配を作り、それを使ってATPを作る」
ミリアがメモを見せた。「化学浸透説:ピーター・ミッチェル、1978年ノーベル賞」
「最初は信じられなかった」零が言った。「なぜ、わざわざプロトンを使うのか」
「どうして?」
「制御とカップリング」零が説明した。「異なる代謝経路を、プロトン勾配で統合できる」
奏がノートに書いた。「共通通貨みたい」
「良い比喩。プロトン勾配は、エネルギーの共通通貨」
「葉緑体でも同じ仕組み?」
「まさに。チラコイド膜でプロトンを汲み上げて、ATPを作る」
ミリアが補足した。「細菌も、原核生物も」
「全ての生命が、この原理を使ってる」零が言った。「普遍的なメカニズム」
奏がふと思った。「じゃあ、ポンプが壊れたら?」
「死ぬ」零が静かに言った。「ATPがなければ、生命活動は停止する」
「そんなに重要なんだ」
「シアン化物が毒なのも、電子伝達系を止めるから。プロトン勾配が作れなくなる」
ミリアが悲しそうに頷いた。
「でも、効率は?」奏が聞いた。「完璧なの?」
「約40%」零が答えた。「残りは熱になる」
「もったいない」
「でも、車のエンジンより効率的。しかも、常温で動く」
奏が感心した。「すごいな」
零が続けた。「ATPシンターゼの構造も美しい。F1部分とF0部分」
「F1は頭、F0は軸」ミリアが描いた。
「F0がプロトンの通り道。プロトンが通ると、回転する」
「その回転がF1に伝わって、ADPとリン酸を結合させる」
奏が動画を見直した。「機械みたい」
「生物の機械」零が微笑んだ。「でも、人工物より精密」
「一分子で働くの?」
「そう。一つのATPシンターゼが、独立して機能する」
ミリアがメモを見せた。「1秒に約300個のATP」
「一つの分子で、そんなに?」奏が驚いた。
「細胞全体では、毎秒何億個」零が言った。「休むことなく、働き続ける」
「プロトンポンプの使命」奏がつぶやいた。
「生命を支える使命」零が答えた。
ミリアが窓の外を見た。呼吸している。それは、体中のミトコンドリアでプロトンが流れ、ATPシンターゼが回転している証。
「見えないけど、感じる」奏が言った。
「そう。生命は、目に見えない回転で動いてる」
三人は静かに座った。体の中で、今この瞬間も、何兆ものプロトンポンプが使命を果たしている。生きるということは、回り続けること。