今日、ミラが珍しく最初から部室にいた。窓辺に座り、外を眺めている。
「ミラ、早いね」由紀が声をかけた。
ミラは振り返り、ノートに何か書いて見せた。「Entropy always increases」
「エントロピーは常に増大する」
葵が興味深そうに近づいた。「熱力学第二法則のことかい?」
ミラが頷いた。珍しく、少し表情に憂いが見える。
「どうしたの、ミラ?」由紀が心配そうに聞いた。
ミラは書き続けた。「My room. Messy. Cannot decrease entropy.」
「部屋が散らかってて、エントロピーを減らせない」由紀が笑った。「それは誰でもあるよ」
でもミラは真剣だった。次のページに書く。「Order → Disorder. Natural law.」
「秩序から無秩序へ。自然法則」
葵が静かに言った。「確かに、エントロピーの増大は不可避だ。閉じた系では、時間とともに無秩序が増す」
「でも、片付ければいいんじゃない?」由紀が提案した。
ミラが首を振り、書いた。「Requires energy. System not closed.」
「エネルギーが必要。系は閉じてない」
「なるほど」葵が理解した。「ミラは、エントロピーの本質に悩んでるんだ」
ミラが頷き、長めの文を書いた。「Life fights entropy. But ultimately loses. Melancholy.」
「生命はエントロピーと戦う。でも最終的には負ける。憂鬱」
由紀が深く考え込んだ。「確かに、全ては最終的に崩れていく」
「だが」葵が優しく言った。「局所的にはエントロピーを減らせる」
ミラが顔を上げた。
「生命は、外部からエネルギーを取り入れて、自分の秩序を維持する。部屋を片付けるように」
「でも、宇宙全体では?」
「宇宙全体のエントロピーは増える。でも、その中で局所的な秩序を作れる。それが生命の美しさだ」
ミラが小さく微笑んだ。
葵が続けた。「情報エントロピーも同じ。データは時間とともに劣化し、ノイズが増える。でも、エラー訂正符号で対抗できる」
「戦い続けるんですね」由紀が言った。
ミラが書いた。「Temporary order. Is it meaningful?」
「一時的な秩序。意味がある?」
葵が答えた。「意味は、時間の長さではない。その瞬間の美しさにある」
ミラが静かに涙をこぼした。由紀が驚いて近づく。
「ミラ、どうしたの?」
ミラは震える手で書いた。「I am also entropy. Forgetting. Losing information.」
「私もエントロピー。忘れること。情報を失うこと」
葵が優しく肩に手を置いた。「でも、忘れることも必要だ。全てを記憶していたら、脳はオーバーフローする」
「情報の選択的削除」由紀が補足した。
ミラが顔を上げた。「Then... entropy is not enemy?」
「ではエントロピーは敵じゃない?」
「敵じゃない」葵が断言した。「エントロピーは、変化を可能にする。完全な秩序は、停滞を意味する」
「無秩序があるから、新しい秩序が生まれる」由紀が理解した。
ミラが深く息をついた。そして書いた。「Life = fighting entropy + accepting entropy」
「生命はエントロピーと戦い、エントロピーを受け入れる」
「美しい定義だ」葵が認めた。
「ミラは哲学者だね」由紀が微笑んだ。
ミラが少し元気を取り戻した。最後のページに書く。「Thank you. Reduced my mental entropy.」
「ありがとう。心のエントロピーが減った」
「それは良かった」葵が笑った。「でも、また増えたら言って」
ミラが頷いた。そして、久しぶりに小さく笑った。
窓の外では、桜の花びらが散っている。秩序だった花が、無秩序に舞い落ちる。でもその無秩序さが、春の美しさを作っている。
「エントロピー少女の憂鬱、解決?」由紀が聞いた。
ミラが書いた。「Ongoing. Like life.」
「継続中。人生のように」
三人は静かに笑った。エントロピーは増え続ける。でもその中で、一瞬一瞬の秩序を楽しむことができる。