「迷った」
透真が代謝マップを見つめた。矢印が縦横無尽に走っている。
「迷宮だ」零が認めた。「でも、ルールはある」
「ルール?」奏が聞く。
「目的地は決まってる。ATPとNADH」
ミリアが説明した。「糖代謝の最終目標は、エネルギー通貨を作ること」
「エネルギー通貨?」
「ATP。細胞が使えるエネルギーの形」
透真が指さした。「これが解糖系?」
「そう。グルコースをピルビン酸に分解する。十のステップ」
奏がノートに書いた。「十ステップも?」
「各ステップに酵素がある。少しずつエネルギーを取り出す」
零が補足した。「一気に分解すると、熱になって無駄になる」
「だから段階的?」
「効率的なエネルギー回収のため」
ミリアが図を描いた。「解糖系で、二つのATPができる」
「二つだけ?」
「グルコース一分子から。でも、酸素がないときはこれだけ」
透真が質問した。「酸素があると?」
「ピルビン酸がミトコンドリアに入る。クエン酸回路へ」
零が続けた。「まずアセチルCoAに変換される。CO2が取れる」
「CO2?」
「脱炭酸。炭素が減る反応」
奏が混乱した。「クエン酸回路って何?」
「八つのステップで、アセチルCoAを完全にCO2まで酸化する」ミリアが説明した。
「完全に?」
「炭素が全部CO2になる。その過程でNADHとFADH2ができる」
透真が聞いた。「NADHって何に使う?」
「電子伝達系。ここで大量のATPが作られる」
「大量?」
「グルコース一分子から、約30のATP」
奏が驚いた。「解糖系の二つと比べて!」
「酸素がある方が圧倒的に効率的」零が強調した。
ミリアが別の経路を示した。「糖新生もある」
「糖新生?」
「逆方向。ピルビン酸からグルコースを作る」
透真が混乱した。「逆?じゃあ、同時に起きたら?」
「起きない。調節機構がある」零が答えた。
「調節?」
「アロステリック制御、ホルモン、リン酸化…複雑な制御網」
奏が質問した。「なんで逆方向が必要?」
「脳は糖しか使えない。血糖を維持するため」ミリアが説明した。
「肝臓で糖新生が起きる」
零が付け加えた。「アミノ酸や乳酸から、グルコースを再生する」
透真がつぶやいた。「ぐるぐる回ってる?」
「代謝サイクル。物質が循環する」
ミリアが強調した。「クエン酸回路も、実はサイクル」
「サイクル?」
「オキサロ酢酸で始まり、オキサロ酢酸で終わる。回転する」
奏が感動した。「永久機関みたい」
「違う」零が訂正した。「エネルギーと物質が投入される。開いた系だ」
「開いた系?」
「食物から栄養が入り、CO2と水が出る。流れがある」
透真が代謝マップを見直した。「全部つながってる?」
「すべて。糖、脂質、アミノ酸の代謝が交差する」
ミリアが図を描いた。「アセチルCoAが中心。多くの経路がここに集まる」
「ハブ?」
「そう。代謝の交差点」
零が続けた。「だから糖は脂肪になれるし、アミノ酸からも糖ができる」
奏が理解した。「変換可能?」
「エネルギー保存則に従う範囲で」
ミリアが付け加えた。「でも、一方向だけの反応もある」
「一方向?」
「不可逆ステップ。制御ポイントになる」
透真が興奮した。「迷宮だけど、地図がある!」
「そう。代謝マップは、生命の地図」零が言った。
奏がつぶやいた。「糖代謝、思ったより複雑」
「でも、美しい」ミリアが微笑んだ。
「最適化された経路網」零が付け加えた。
透真が笑った。「迷宮、楽しい」
「探検はまだ始まったばかり」ミリアが言った。
四人は、代謝マップを見つめた。迷宮の中に、秩序がある。