「ごめん、最後の部分、聞き取れなかった」
由紀が陸に言った。
「え?『明日の集合時間は10時』って言ったんだけど」
「『10時』が聞こえなかった。ノイズが入って」
葵が近づいた。「これは誤り訂正の問題だね」
「誤り訂正?」
「通信にはノイズがつきもの。完璧な通信路は存在しない。だから、情報に冗長性を持たせる」
陸が尋ねた。「冗長性って、無駄じゃないの?」
「無駄どころか、必須だ」葵が説明した。「パリティビットという仕組みがある」
由紀がノートを開いた。「聞いたことあります。でも、詳しくは…」
葵はホワイトボードに書いた。
「データ: 1011 パリティビット: 1 送信: 10111」
「パリティビットは、1の個数を偶数か奇数にするための追加ビット。もし受信時にビット数が合わなければ、エラーを検出できる」
「エラーは検出できるけど、訂正は?」
「単純なパリティでは訂正できない。でも、ハミング符号のような高度な方法なら、エラーを訂正できる」
陸が興味を持った。「どうやって?」
「複数のパリティビットを戦略的に配置する。エラーの位置を特定し、自動的に修正する」
由紀が考えた。「会話でも、そういう仕組みがある?」
「ある」葵が頷いた。「さっきの例で、もし陸が『明日の集合時間は10時だよ、午前10時ね』と言ったら?」
「『10時』が聞こえなくても、『午前10時』で分かります」
「それが人間の誤り訂正だ。重要な情報を繰り返したり、別の言い方で補強したりする」
陸が笑った。「俺、よく同じこと繰り返すけど、それって誤り訂正?」
「そうだ。冗長だけど、理にかなってる」
由紀が別の例を考えた。「文脈も誤り訂正になりますか?」
「鋭い観察だ」葵が感心した。「文脈は強力な誤り訂正符号だ」
「どういうこと?」
「例えば、『明日は□曜日だ』。□が聞こえなくても、今日が何曜日か知っていれば推測できる」
「共有知識が、誤り訂正の鍵?」
「正確に。相互情報量が高いほど、少ないビットで多くを復元できる」
陸がノートに書いた。「じゃあ、仲良い人ほど、少ない言葉で通じる理由は?」
「共通の文脈という誤り訂正符号を共有してるからだ」
由紀が微笑んだ。「優しさも、一種の誤り訂正ですね」
「どういう意味?」
「相手の言葉が不完全でも、意図を汲み取ろうとする。それは、エラーを訂正してあげる行為」
葵が深く頷いた。「素晴らしい洞察だ。人間の誤り訂正は、アルゴリズム以上に柔軟だ」
陸が尋ねた。「でも、訂正しすぎると問題ない?」
「ある。過剰な訂正は、元のメッセージを歪める可能性がある」
由紀が例を出した。「相手が『少し疲れた』と言ったのに、『すごく大変だったんだね』と解釈するとか」
「その通り。誤り訂正は、元の信号を尊重しつつ、欠損を補う。バランスが大切だ」
葵は新しい図を描いた。
「ターボ符号やLDPC符号は、シャノン限界に近い性能を持つ。でも、計算コストが高い」
「人間関係でも、コストがある?」
「ある。相手の意図を推測するには、注意と理解が必要。これは認知的コストだ」
陸が笑った。「だから、疲れてる時は誤解が増える?」
「そう。処理能力が下がると、誤り訂正の精度も下がる」
由紀が尋ねた。「じゃあ、どうすれば良い通信ができる?」
「送信側と受信側、両方の努力が要る」葵が答えた。
「送信側は、明確で冗長性のあるメッセージを。受信側は、注意深く誤りを訂正する」
陸が納得した。「お互いの協力が大事なんだ」
「まさに。通信は一方通行じゃない。双方向の協調プロセスだ」
由紀がノートを閉じた。「今日から、もっと注意深く聞きます」
「それは良い。でも」葵が付け加えた。「完璧を求めなくていい。ノイズは避けられない。大切なのは、欠損があっても補い合える関係だ」
「誤り訂正符号みたいに?」
「そう。情報の欠損を埋める優しさ。それが、良いコミュニケーションの本質だ」
三人は夕暮れの部室で、互いの言葉を大切に聞き合った。
完璧な通信は存在しないが、補い合える関係は築ける。
それが、情報理論が教えてくれる人間関係の知恵だった。