「どうして情報理論部に入ったの?」
新入部員の説明会で、葵が由紀に尋ねた。
「偶然です。図書館で葵先輩を見かけて、持ってた本のタイトルが面白そうだった」
「ランダムな出会いだね」
「でも」由紀が続けた。「そこから色々なことが起きて、今ここにいる。偶然じゃない気もします」
葵は興味深そうに頷いた。「確率過程という考え方がある」
「確率過程?」
陸が割り込んできた。「俺も偶然だよ!間違えて部室に入った」
「君の場合、カオス的だけどね」葵が笑った。
ミラが静かに近づき、ノートに書いた。「Random walk leads to destination」
「ミラの言う通り」葵が説明を始めた。「ランダムな選択の連続でも、最終的にはある状態に収束する。これがマルコフ連鎖だ」
由紀が尋ねた。「マルコフ?」
「現在の状態だけから次の状態が決まる確率過程。過去の経路は関係ない」
「じゃあ、私が今ここにいる確率も計算できる?」
葵はホワイトボードに図を描いた。
「例えば、由紀の一日の状態を考える。図書館、教室、部室、家。それぞれの状態から次の状態への遷移確率がある」
「図書館から部室に来る確率が0.3、家に帰る確率が0.7とか?」
「そう。そして面白いのは、十分に時間が経つと、定常分布に収束する」
陸が混乱した顔をした。「定常分布?」
「どの状態にどれくらいの時間いるか、という長期的な割合。最初の状態に依存しない」
ミラが式を書いた。「π = πP」
「定常分布πは、遷移行列Pと自分自身の積になる」葵が補足した。
由紀が考え込んだ。「じゃあ、私が部室にいる確率も、長期的には一定になる?」
「エルゴード的なマルコフ連鎖なら、そうだ。どの状態からも他のどの状態にも行ける場合」
陸が言った。「俺たちが出会ったのも、マルコフ連鎖の結果?」
「ある意味でね。でも」葵が微笑んだ。「人間の行動は完全にマルコフじゃない。過去の経験も影響する」
ミラが新しいメモを書いた。「Memory makes us more than Markov」
「記憶が私たちをマルコフ以上にする」由紀が翻訳した。
葵が頷いた。「そう。情報理論は無記憶性を仮定することが多いけど、現実はもっと複雑だ」
由紀は窓の外を見た。「でも、ランダムな出会いから始まったことは確かです」
「確率は低かったかもしれない」葵が言った。「でも、ゼロじゃなかった。だから起こった」
陸が手を挙げた。「じゃあ、俺が明日遅刻するかどうかも、マルコフ連鎖?」
「単純化すれば。今日遅刻したかどうかだけが、明日の遷移確率に影響する」
「昨日遅刻したから、今日も遅刻しやすいってこと?」
「それは記憶のある過程だ。マルコフじゃなく、高次のマルコフモデル」
ミラが静かに微笑んだ。彼女は、こういう議論を楽しんでいる。
由紀が言った。「ランダムに見えても、背後には確率の構造がある」
「そう。PageRankアルゴリズムもマルコフ連鎖だ。ウェブページ間のランダムな移動を定常分布で評価する」
「情報理論って、本当に色々なところに応用されてるんですね」
葵が頷いた。「確率、統計、情報理論。全部つながっている」
陸が真剣な顔をした。「じゃあ俺たち四人が集まった確率は?」
「計算するには、全ての遷移確率を知る必要がある」葵が答えた。「でも、とても低いことは確かだ」
「だからこそ」由紀が微笑んだ。「価値がある出会いなんですね」
ミラが頷いた。彼女の表情は、いつもより穏やかだった。
部室の窓から、夕日が差し込む。ランダムな出会いが、確かな絆になっていた。
マルコフ連鎖は、時に奇跡を生む。