「最近、あの二人ぎくしゃくしてない?」
陸が廊下の方を指した。
「気づいてたんだ」葵が静かに言った。「通信路が不安定になってる」
「通信路?」由紀が聞き返す。
「人と人との関係も、通信路として捉えられる。メッセージを送り、受け取り、理解する」
「なるほど」由紀が理解した。「で、不安定って?」
「ノイズが増えたり、容量が下がったり、相互情報量が低下したり」
陸が座り込んだ。「相互情報量?」
葵はノートに式を書いた。「I(X;Y) = H(X) - H(X|Y)。Xの情報のうち、Yを知ることで得られる情報」
「難しい」陸が頭を抱えた。
「簡単に言うと、どれだけ相手の状態が、自分の状態と関係しているか」
由紀が例を求めた。「具体的には?」
「完璧に理解し合ってるカップルは、相互情報量が高い。一方の気持ちが、もう一方の気持ちを強く予測する」
「逆に、ぎくしゃくしてると?」
「相互情報量が低い。相手の気持ちが読めない。メッセージが届かない」
陸が考えた。「じゃあ、どうすれば安定する?」
「通信路の品質を上げること。ノイズを減らし、帯域幅を広げる」
「ノイズを減らす?」由紀が聞く。
「誤解や思い込みを減らす。クリアなコミュニケーション」
葵は続けた。「帯域幅を広げるのは、コミュニケーションの頻度や種類を増やすこと」
「話す回数を増やしたり、言葉以外の方法を使ったり」
「そう。マルチチャネル通信だ」
陸が立ち上がった。「俺、あいつらに何か言った方がいい?」
「介入するのもノイズになりうる」葵が慎重に言った。「彼ら自身が、通信路を修復する必要がある」
「でも、見てるだけは辛い」
「気持ちは分かる。でも、通信路の所有者は彼らだ」
由紀が別の視点を出した。「もしかして、通信路が一時的に切れるのも、必要かもしれません」
「どういうこと?」陸が聞く。
「リセットのため。ノイズが溜まりすぎたら、一度切断して、再構築する」
葵が頷いた。「プロトコルの再ネゴシエーションみたいなものだ」
「関係を見直すってこと?」
「そう。古い通信路が機能しなくなったら、新しい通信路を確立する」
陸が考え込んだ。「それで、より良い関係になれる?」
「可能性はある。でも、保証はない」
葵は静かに言った。「通信理論も、人間関係も、確率的だ。最善を尽くしても、失敗することはある」
「じゃあ、どうすればいい?」
「シャノンの通信路符号化定理を思い出して。通信路容量以下なら、任意に小さい誤り率で通信できる」
「つまり?」
「自分たちの通信路の容量を理解すること。無理に、容量を超える情報を送ろうとしない」
由紀が理解した。「期待しすぎたり、要求しすぎたりしない」
「そう。通信路の限界を受け入れる」
陸が窓の外を見た。「あの二人の通信路の容量は?」
「分からない。でも、彼らが見つける必要がある」
葵が補足した。「そして、その容量内で、最も効率的な符号化を見つける」
「言い方を工夫したり、タイミングを選んだり」
「正確。コミュニケーションは、符号化と復号化のプロセスだ」
由紀が静かに言った。「私たち三人の通信路は、安定してると思いますか?」
葵が微笑んだ。「比較的安定してる。でも、メンテナンスは必要」
「メンテナンス?」
「定期的に、お互いの理解を確認する。誤解が溜まらないように」
陸が笑った。「じゃあ、今日も通信路メンテナンスの日だな」
「そうだね」葵が言った。「安定した通信路は、努力の結果だ」
三人は静かに、自分たちの関係という通信路を、大切に保ち続けることを誓った。