「知らなければよかった」
晴が小さく呟いた。
「何を?」サイモンが尋ねた。
「...友達の秘密。知らない方が、関係は平和だった」
ノアが静かに言った。「無知の幸福」
「無知の幸福?」
サイモンが説明した。「真実を知らないことで得られる安寧。プラトンの洞窟の比喩を知ってる?」
晴が首を振った。
「洞窟に縛られた人々は、壁に映る影だけを見て生きている。それが彼らの現実だ」
「影?」
「真実の世界は、洞窟の外にある。でも、影しか知らない人々は幸せだ」
ノアが続けた。「誰かが外に出て、真実を知る。そして洞窟に戻って伝える」
「みんな喜ぶ?」
「いや。真実は拒絶される。影の方が心地よいから」
晴が理解した。「知ることは、苦しみ?」
「時には」サイモンが認めた。「無知は保護になる」
ノアが付け加えた。「でも、脆い保護」
「脆い?」
「真実はいずれ露呈する。無知は永続しない」
晴が考え込んだ。「じゃあ、知った方がいい?」
「それは状況による」サイモンが言った。「いつも知識が良いとは限らない」
「例えば?」
「医学的診断。余命を知ることは、患者の利益になるか?」
ノアが答えた。「人による。知りたい人も、知りたくない人もいる」
「選択の自由?」
「そう。でも、選択にも責任が伴う」
晴が不安そうに言った。「私の場合は、選べなかった。偶然知ってしまった」
サイモンが優しく聞いた。「その知識は、あなたを苦しめてる?」
「...うん」
「なぜ?」
「何もできないから。知っているのに、黙ってる」
ノアが言った。「知識は、行動の義務を生むこともある」
「義務?」
「知ったからには、何かすべきだという感覚」
晴が頷いた。「まさにそれ」
サイモンが考え込んだ。「ニーチェは『無知は美徳ではない』と言った。でも、知識も自動的に美徳ではない」
「知識の使い方が重要?」
「そう。知識は道具。善にも悪にもなる」
ノアが静かに言った。「そして、時に知識は重荷」
晴が深く息をついた。「真実を知らなければ、こんなに悩まなかった」
「でも」サイモンが問うた。「本当に知らない方がよかった?」
晴が迷った。「...分からない」
「それが誠実な答えだ」
ノアが付け加えた。「真実と幸福は、必ずしも両立しない」
「両立できない?」
「快適な嘘と、苦しい真実。どちらを選ぶかは、価値観の問題」
晴が尋ねた。「哲学的には、どっちが正しいの?」
サイモンが笑った。「哲学は答えを与えない。問いを深めるだけだ」
「役に立たない?」
「いや。正しい問いを持つことが、既に成長だ」
ノアが言った。「晴は今、重要な問いに直面している」
「重要?」
「知識の倫理的な使い方。それは人生の核心的問題だ」
晴が少し楽になった。「悩むことは、悪くない?」
「むしろ良い」サイモンが認めた。「無自覚に生きるより、誠実だ」
ノアが静かに言った。「苦しみは、深さの証」
晴が考えた。「じゃあ、この知識とどう付き合えば?」
「焦らず、考え続ける」サイモンがアドバイスした。
「時間が答えをくれる?」
「時間が、あなたの準備を整える」
ノアが付け加えた。「そして、いつか行動できる」
晴が小さく笑った。「知ることは呪いであり、祝福でもある」
「詩的だが、正確だ」サイモンが頷いた。
ノアが言った。「人間だけが、知ることの苦しみを経験する」
「それが人間らしさ?」
「そう。知識と向き合う勇気が、人間の尊厳だ」
晴が窓の外を見た。「真実は重い。でも、逃げない」
サイモンが微笑んだ。「それが哲学者の態度だ」
「私、哲学者?」
「誰でも、自分の人生の哲学者だ」
ノアが静かに頷いた。三人は黙って、真実の重さを分かち合った。