「嫉妬した」
乃愛が静かに言った。珍しく感情を表に出している。
「何に?」蓮が聞く。
「友達が賞を取った。素直に喜べなかった」
晴が驚いた。「乃愛さんでも嫉妬するんだ」
「人間だから」
蓮が考え込んだ。「嫉妬は悪いこと?」
「そう思う。友達を素直に祝福すべきなのに」
「でも感じてしまう」晴が言った。「私もある」
「感じること自体が悪なのか」蓮が問う。「それとも、行動が悪なのか」
乃愛が目を上げた。「どう違う?」
「感情は自然な反応だ。脳が勝手に生み出す。でも、行動は選択できる」
「つまり、嫉妬を感じるのは仕方ない?」
「スピノザはそう考えた。感情に善悪はない。あるのは、有用か有害か」
晴が首を傾げた。「嫉妬が有用?」
「場合による」蓮が続けた。「嫉妬が自己改善の動機になれば有用。他者を攻撃する動機になれば有害」
乃愛が納得した。「感情そのものより、それをどう扱うか」
「正確」
「でも」晴が疑問を持った。「嫉妬を感じることで、自分が嫌になる」
「なぜ?」
「心が狭いって思う」
蓮が答えた。「それは、感情を道徳的に評価してるからだ」
「評価しちゃダメ?」
「評価するのは自由だけど、感情を抑圧すると歪む」
乃愛が補足した。「嫉妬を認めることと、嫉妬に従うことは別」
「認める?」
「『私は嫉妬してる』と自覚する。否定しない」
晴が考えた。「認めたら、楽になる?」
「必ずしも。でも、対処できる」
蓮が哲学的視点を示した。「アリストテレスは、感情に中庸を求めた」
「中庸?」
「過剰でも不足でもない適度な状態。嫉妬なら、適度な競争心は良いが、過剰な敵意は悪い」
「でも、どこが『適度』?」乃愛が尋ねる。
「文脈による。状況、関係性、影響...」
「曖昧だ」
「倫理は曖昧だ」蓮が認めた。「だから判断が難しい」
晴がふと思いついた。「嫉妬って、自然選択の結果じゃ?」
「どういうこと?」
「競争で生き残るために、他者の成功を脅威と感じる。進化的に有利」
乃愛が興味を示した。「自然主義的説明だね」
「でも、自然だから許される?」蓮が問う。
「許されない?」
「自然な衝動は多い。暴力、独占欲...。でも、それを理性で制御するのが人間」
「じゃあ、嫉妬も制御すべき?」
「感じるのは止められない。でも、行動は制御できる」
乃愛が静かに言った。「私、嫉妬を感じたけど、おめでとうって言った」
「それが重要」蓮が頷いた。「感情と行動の分離」
「でも、心では嫉妬してる。それって偽善?」晴が聞く。
「偽善とは少し違う」乃愛が答えた。「本心では嫉妬してても、友情を尊重する選択をした」
「どっちが本心?」
「両方」蓮が言った。「人間は複数の感情を同時に持つ」
「矛盾してる」
「矛盾してるのが人間」
晴が少し安心した。「じゃあ、嫉妬するのは悪じゃない?」
「感じること自体は悪じゃない」乃愛が言った。「でも、それに支配されるのは危険」
「支配されない方法は?」
「自覚すること」蓮が答えた。「『私は嫉妬してる。でも、それが全てじゃない』と」
乃愛が微笑んだ。「感情を観察する。巻き込まれない」
「マインドフルネス?」
「一つの方法だね」
窓の外で雨が降り始めた。嫉妬も雨のように、自然に降る。でも、傘を差すことはできる。
「嫉妬してもいいんだ」晴が呟いた。
「ただし、それをどう扱うか」蓮が言った。
「感情と共存する」乃愛が付け加えた。
三人は沈黙した。嫉妬という名の雨音を聞きながら。