「伝わってるつもりで、伝わってないことってあるよね」
陸の独り言に、由紀が反応した。「どういう意味ですか?」
「さっき葵先輩に質問したんだけど、全然違う答えが返ってきた」
葵が苦笑した。「陸の質問が曖昧だったからだ」
「これが通信路容量の問題だ」葵が説明を始めた。「チャネルには限界がある。いくら情報を送ろうとしても、通信路が対応できる量には上限がある」
由紀がノートを開いた。「通信路容量って、何で決まるんですか?」
「主に二つ。帯域幅と信号対雑音比」
葵がホワイトボードに式を書いた。
「C = B log₂(1 + SNR)」
「Cが通信路容量、Bが帯域幅、SNRが信号対雑音比」
陸が困惑した。「難しそう」
「具体例で考えよう」葵が続けた。「電話回線。音声の帯域は約3000Hz。SNRが約30dBとすると…」
葵が計算した。「容量は約30kbps。これ以上のデータを送ろうとしても、誤りが増える」
「だから電話の音質は限られてるんだ」由紀が理解した。
「そう。物理的制約が、情報の流れを制限する」
陸が考えた。「じゃあ、会話でも通信路容量があるってこと?」
「面白い視点だ」葵が認めた。「人間の聴覚処理能力にも限界がある。毎秒どれだけの情報を理解できるか」
「早口で話しても、理解されないのはそのせい?」
「まさに。送信側が容量を超えて情報を送ると、受信側は処理できない。情報が失われる」
由紀が手を挙げた。「でも、ゆっくり話せば全部伝わりますよね?」
「理論的にはね。ただし、時間がかかる。ここでもトレードオフだ」
葵が新しい図を描いた。「シャノン限界。通信路容量が理論的上限を示す。どんなに賢い符号化をしても、これは超えられない」
「絶対的な壁?」陸が尋ねた。
「そう。でも、逆に言えば、容量以下なら誤りを限りなくゼロにできる。シャノンの通信路符号化定理だ」
由紀がノートに書いた。「じゃあ、通信路容量を増やすには?」
「帯域を広げるか、SNRを上げる。帯域は物理的制約で難しいことが多い。だから、ノイズを減らす方が現実的」
陸が興奮した。「じゃあ、静かな場所で話せば、通信路容量が上がる!」
「正解。図書館で会話するのと、工事現場で会話するのでは、伝達効率が全然違う」
「だから、大事な話は静かな場所でするんだ」由紀が納得した。
葵が補足した。「通信工学では、信号を強くするか、ノイズを減らすか。両方のアプローチがある」
「でも、信号を強くしすぎると?」
「他の通信を妨害する。だから、無線通信では送信電力が規制されてる」
陸が真剣な顔をした。「つまり、みんなが大声で話すと、誰も聞こえなくなる」
「カクテルパーティー効果の逆だね」葵が笑った。
由紀がまとめた。「伝わってるかどうかは、通信路容量で決まる。送る情報量が容量を超えたら、伝わらない」
「だから、相手の理解速度に合わせることが大事」葵が言った。
「葵先輩の説明が分かりやすいのは、私の通信路容量を考えてくれてるからですね」
葵が微笑んだ。「情報理論の実践だ」
陸が頷いた。「俺も、ちゃんと伝わる話し方を考えよう」
通信路容量。それは、理論だけじゃなく、日常の全てに関わる概念だった。