「ニュースを見なくなった」
晴がつぶやいた。図書館で、サイモンと美緒が本を読んでいる。
「なぜ?」サイモンが聞いた。
「辛くて。戦争、災害、事件。毎日悪いニュースばかり」
美緒が本から顔を上げた。珍しいことだ。
「無関心は罪だと言われる」サイモンが言った。「でも、本当にそうだろうか」
「関心を持つべきでしょ?世界で起きてることに」
「共感疲労という概念がある」サイモンが説明した。「過剰な共感が、心を壊す」
晴が驚いた。「共感が悪いこと?」
「量と質の問題だ。すべてに共感しようとすると、自分が消耗する」
美緒が小さく頷いた。
「美緒はどう思う?」晴が聞いた。
美緒は答えず、ノートに書いた。「距離が必要」
「距離?」
サイモンが解釈した。「感情的距離。すべてに巻き込まれない」
「それは冷たい?」晴が不安そうに聞く。
「自己保存だ」サイモンが答えた。「飛行機の安全説明を思い出せ。自分の酸素マスクを先につける」
「他人より自分?」
「自分が壊れたら、誰も助けられない」
晴が考え込んだ。「でも、無関心が広がると、社会は冷たくなる」
「それも真実だ」サイモンが認めた。「だから、バランスが必要だ」
美緒が再び書いた。「選択的関心」
「選択的?」
「すべてに関心を持つのは不可能」サイモンが説明した。「だから、自分に近い問題、影響力を持てる問題に集中する」
晴が理解した。「優先順位をつける」
「そう。それは無関心ではなく、戦略的配慮だ」
「でも、遠くの人の苦しみを無視していいの?」
サイモンが難しい顔をした。「ピーター・シンガーは、すべての苦しみに平等に関心を持つべきだと主張する」
「正しい?」
「理想的には。でも、心理的に持続可能か疑問だ」
美緒がまた書いた。「完璧な共感は不可能」
「その通り」サイモンが頷いた。「人間の共感能力には限界がある。ダンバー数のように」
「ダンバー数?」
「人間が安定した関係を維持できる人数。約百五十人」
晴が驚いた。「そんなに少ない?」
「進化的制約だ。私たちは小規模集団で進化した。グローバル社会に、脳がついていけない」
「じゃあ、遠くの人を気にしないのは自然?」
「自然だが、それで良いわけではない」サイモンが強調した。「自然と規範は別だ」
晴が混乱した。「どういうこと?」
「自然に無関心になりやすい。でも、道徳的には関心を持つべき。この矛盾が人間の条件だ」
美緒が立ち上がった。窓の外を見る。
晴が聞いた。「美緒は、どう折り合いをつけてるの?」
美緒は長い間沈黙した。そして、静かに言った。
「小さく、深く」
「小さく、深く?」
サイモンが解釈した。「広く浅くではなく、少数の問題に深く関わる」
美緒が頷いた。
晴が納得した。「質より量じゃなくて、量より質」
「ただし」サイモンが付け加えた。「それは個人レベルの話だ。社会全体では、多様な人が多様な問題に関心を持つ必要がある」
「分業?」
「そう。私が環境問題に、君が教育問題に、美緒が芸術支援に。それぞれが得意分野で貢献する」
晴が希望を持った。「じゃあ、無関心でもいい?一部の問題には」
「無関心という言葉は誤解を招く」サイモンが訂正した。「優先順位をつけた結果、ある問題に積極的に関わらない選択」
美緒が書いた。「罪悪感は不要」
「そう」サイモンが同意した。「すべてに関心を持てない自分を責めても、生産的ではない」
晴がノートを開いた。「じゃあ、私は何に関心を向ければ?」
「自問すべきだ」サイモンが言った。「何が自分に近いか。何に影響力を持てるか。何に情熱を感じるか」
美緒が晴を見た。優しい目だった。
晴が微笑んだ。「教育かな。身近だし、大事だと思う」
「良い選択だ」サイモンが認めた。「そして、他の問題を無視するわけではない。ただ、主戦場を選んだだけだ」
美緒が再び書いた。「無関心は悪ではない。無思考が悪」
サイモンが読んで頷いた。「深い洞察だ。考えた上で距離を置くのと、考えずに無視するのは違う」
晴が安心した。「じゃあ、ニュースを見ないのも、選択なら許される?」
「自己保存のためなら」サイモンが答えた。「でも、完全に遮断するのではなく、適度な情報摂取を」
美緒が最後に書いた。「自分を守りながら、世界を思う」
三人は静かに本に戻った。無関心ではない。選択的な関心だ。
それは、持続可能な優しさの形かもしれない。