「また描き直してる」
晴が美術室で呟いた。ノアは三枚目のキャンバスに向かっている。
「完璧じゃないから」ノアが短く答えた。
「でも、前の二枚も良かったよ」
「良い、では足りない」
蓮が入ってきた。「完璧の定義は何だ?」
ノアが筆を止めた。「...分からない」
「定義できないものを、どう目指す?」
晴が二人を見た。「哲学モード?」
「完璧主義は興味深い」蓮が言った。「到達不可能な目標を追う矛盾」
ノアが振り返った。「じゃあ、諦めろと?」
「逆だ。完璧さの不可能性を認めることが、始まりかもしれない」
晴が破棄された絵を見た。「これ、すごく良いのに」
「左上の影が不自然」ノアが指摘する。
「でも、それが味になってる」
「味?」
「不完全さが、個性を作る」晴が言った。「完璧すぎると、機械的に見える」
蓮が頷いた。「日本の美学では『侘び寂び』という概念がある。不完全性や不均衡に美を見出す」
「知ってる」ノアが答えた。「でも、それは妥協じゃない?」
「妥協と受容は違う」蓮が説明した。「妥協は諦め。受容は理解」
晴が聞いた。「何を理解するの?」
「完璧さは抽象概念だという事実。現実には存在しない」
ノアが反論した。「数学的には、完璧な円が存在する」
「概念としてはね」蓮が認めた。「でも、現実世界では、完璧な円は描けない」
「描けないだけで、概念は完璧だ」
「その概念も、実は文化的構築かもしれない」
晴が興味を示した。「文化で完璧さが変わる?」
「西洋では対称性や秩序が重視される。東洋では不均衡や自然性が美とされることもある」
ノアが考え込んだ。「じゃあ、普遍的な美は存在しない?」
「難しい問いだ」蓮が認めた。「カントは主観的普遍性を主張した。美的判断は主観的だが、他者と共有可能だと」
「矛盾してる」
「哲学は矛盾を抱える。それが人間的だから」
晴が笑った。「哲学も不完全?」
「もちろん。完璧な哲学体系は、おそらく存在しない」
ノアが新しい視点を得た。「不完全だからこそ、発展の余地がある?」
「そう。完璧なら、改善の必要がない。つまり、停止だ」
晴が付け加えた。「人間関係も同じかも。完璧な関係より、不完全で成長する関係の方が豊か」
ノアが筆を取った。「でも、努力は無駄?」
「逆だ」蓮が強調した。「完璧を目指す過程こそが、価値を生む」
「到達できないのに?」
「到達が目的じゃない。探求が目的だ」
晴が窓を見た。「完璧な夕日、って言うけど、実際は雲があったり、霞んでたり」
「それでも美しい」ノアが呟いた。
「むしろ、不完全さが美しさを際立たせる」蓮が言った。「対比があるから」
ノアが古いキャンバスを見直した。影の不自然さ。でも、それが緊張感を生んでいる。
「不完全さを、意図的に残す?」
「受け入れる、という表現が正確かも」晴が提案した。
蓮が微笑んだ。「日本の陶芸では、金継ぎという技法がある。割れた器を金で繋ぎ、破損を隠さず美として展示する」
「破損が価値?」
「破損の歴史が、器の物語になる。完璧な新品より、修復の跡がある器の方が深い」
ノアがキャンバスに向き直った。「じゃあ、この影は残す」
晴が嬉しそうに言った。「良い決断」
「不完全だけど、私の絵」
蓮が頷いた。「完璧さの追求と、不完全性の受容。そのバランスが、成熟かもしれない」
ノアが筆を動かし始めた。今度は、欠点を直すためではなく、作品を完成させるために。
不完全でも、それは彼女の作品だった。
「不完全さは欠点じゃない」晴が言った。「存在の証明だ」
蓮が窓際に立った。「完璧な人間はいない。だから、私たちは人間だ」
ノアが小さく微笑んだ。完璧じゃない微笑み。でも、本物だった。