「これ、君の国では失礼じゃないの?」
サイモンが箸の使い方を見て聞いた。
春が困惑した。「何が?」
「食べ物に箸を突き刺すこと。僕の国では普通だけど、ここでは違うらしい」
乃愛が説明した。「日本では、仏壇にお供えする時の作法だから、避けるべきとされています」
「文化によって、マナーが違う」
サイモンが興味を持った。「じゃあ、倫理も文化によって違う?」
「倫理とマナーは別では?」春が聞いた。
「境界は曖昧だ」乃愛が考えた。「どちらも『べき』を扱う」
サイモンが例を出した。「ある文化では、年長者を敬うことが絶対的な義務だ」
「でも、別の文化では、個人の自律性が優先される」
春が混乱した。「じゃあ、何が正しいか決められない?」
「倫理的相対主義の立場ではね」乃愛が言った。
「相対主義?」
「倫理的真理は、文化や個人によって異なるという考え方」
サイモンが補足した。「人類学者はこの立場を取ることが多い」
「異文化を理解するには、その文化の価値観を尊重する必要がある」
春が反発した。「でも、明らかに悪いこともあるでしょ?」
「例えば?」
「人を殺すとか」
乃愛が慎重に言った。「でも、戦争では許される場合もある」
「死刑制度を持つ国もある」
サイモンが真剣に言った。「殺人の定義自体が、文化的だ」
春が混乱した。「じゃあ、本当に普遍的な倫理はないの?」
「倫理的普遍主義の立場では、ある」乃愛が答えた。
「カントは、普遍的な道徳法則を求めた」
「定言命法。『あなたの行為の格率が、普遍的法則となることを望めるように行為せよ』」
春が考えた。「難しい」
サイモンが言い直した。「簡単に言えば、みんながそうしても問題ない行為をせよ、ということ」
「なるほど」
乃愛が別の視点を出した。「人権という概念は、普遍主義の例です」
「すべての人間が生まれながらに持つ権利」
サイモンが挑戦的に言った。「でも、人権も西洋的概念だという批判がある」
「非西洋社会に押し付けるのは、文化的帝国主義だと」
春が困った。「どっちが正しいの?」
「両方に一理ある」乃愛が認めた。「だから、議論が続いている」
サイモンが整理した。「おそらく、完全な相対主義も、完全な普遍主義も、極端すぎる」
「中間の立場?」
「そう。ある程度の普遍性を認めつつ、文化的多様性も尊重する」
乃愛が例を出した。「拷問は普遍的に悪いとされる。でも、礼儀作法は文化的に異なる」
「レベルの違い」
春が理解し始めた。「基本的な倫理は普遍的で、細かい規範は文化的?」
「そういう考え方もある」サイモンが言った。
「国連の人権宣言は、その試みだ」
乃愛が慎重に言った。「でも、何が基本的かの判断も、難しい」
「議論と対話が必要」
サイモンが深く頷いた。「倫理は、異なる文化が出会う場所で試される」
「自分の価値観を絶対視せず、他者の価値観も無批判に受け入れない」
春が聞いた。「そのバランスをどう取るの?」
「対話だ」乃愛が答えた。「互いに理由を尋ね、説明する」
「なぜそれが大切なのか、なぜそれが正しいと思うのか」
サイモンが締めくくった。「倫理は、普遍性を目指す営みかもしれない」
「完全には到達できないけど、対話を通じて近づいていく」
春が頷いた。「簡単な答えはないんだね」
「でも、問い続けることに意味がある」
三人は静かに食事を続けた。文化の違いは、倫理を深く考える機会を与えてくれる。