「葵先輩って、私のこと、どれくらい理解してますか?」
由紀が突然聞いた。情報理論部の部室で、二人きりだった。
「急に何?」葵が手を止めた。
「いや、なんとなく。最近、先輩の説明がすごくわかりやすくて」
葵が考え込む。「理解度か。それも情報理論で測れるんだよ」
「本当ですか?」
「相互情報量という概念がある」葵がノートを開いた。「二つの確率変数XとYが、どれだけ関係しているかを測る」
「確率変数?」
「例えば、私の言葉Xと、由紀の理解Yだと思えばいい」
由紀が理解し始める。「先輩が何を言うかと、私が何を理解するか」
「そう。もし完全に独立なら、相互情報量はゼロ。私が何を言っても、由紀の理解には影響しない」
「それは悲しいですね」
「逆に、完全に相関していれば、相互情報量は最大。私が言ったことが、そのまま伝わる」
葵が式を書いた。
「I(X;Y) = H(X) - H(X|Y)
Xのエントロピーから、Yを知った後のXの条件付きエントロピーを引く」
「条件付きエントロピー?」
「Yを知った後に、まだXについて不確実性がどれだけ残るか」
由紀が考えた。「つまり、私が先輩の言葉を聞いた後に、まだどれだけ疑問が残るか?」
「正確!相互情報量は、相手を知ることで減った不確実性を測る」
「深い...」
葵が続けた。「人間関係も同じ。お互いを理解し合うほど、相互情報量が増える」
「でも、完璧な理解って可能ですか?」
「理論上は難しい。人はそれぞれ独自の文脈を持っているから」
由紀がふと思った。「じゃあ、どうすれば相互情報量を増やせますか?」
「コミュニケーション。対話を重ねることで、共通の文脈が増える」
「共通の文脈?」
「共有された経験、知識、価値観。それらが増えるほど、少ない言葉で多くを伝えられる」
由紀が納得した。「だから、先輩と話すほど、説明がわかりやすくなるんですね」
「そうかもしれない」葵が微笑んだ。「由紀が情報理論の基礎を学んだから、私の説明も効率的になった」
「効率的?」
「同じ内容を、より少ない言葉で伝えられる。共有知識が増えたから」
由紀がノートに書いた。「相互情報量 = 共有された理解」
「良い解釈だ」葵が認めた。
しばらく沈黙。
「先輩」由紀が静かに言った。「この相互情報量って、友情とか、そういうのにも当てはまりますか?」
葵が真剣な表情をした。「当てはまると思う。お互いを深く理解する関係は、高い相互情報量を持つ」
「でも、測定はできない」
「できないね。でも、感じることはできる」
由紀が頷いた。「何も言わなくても、わかる時がある」
「それは、共有情報が多いから。相手の状態から、多くを推測できる」
窓の外で鳥が鳴いた。
「情報理論って、冷たい学問だと思ってたけど」由紀が呟いた。
「違うの?」
「人の関係を、こんな風に説明できるなんて。温かいですね」
葵が少し照れた。「そう言ってくれると嬉しい」
「先輩との相互情報量、これからも増やしていきたいです」
「私もだよ」
二人は笑った。情報量が語る距離。それは数式で表せるけど、心で感じるもの。今日また一つ、共有情報が増えた。