「ドッキングスコアは最悪なのに、実験では強力な阻害剤だ」
アキラが困惑していた。
「矛盾してるね」リナが画面を覗き込んだ。
「何が間違ってるんだろう」
「タンパク質構造が間違っている可能性は?」
「結晶構造だから、正確なはずだけど…」
リナが気づいた。「待って。これ、アポ型の構造?」
「アポ型?」
「リガンドが結合していない状態のタンパク質だ」
「そうだよ。だから、ここに化合物をドッキングした」
「それが罠だ」
「罠?」
リナが説明した。「タンパク質は柔軟だ。リガンドが結合すると、構造が変わる」
「Induced-Fit…誘導適合か」瀬奈が入室して言った。
「そう。鍵穴が鍵に合わせて形を変えるようなものだ」
アキラが理解した。「だから、アポ型にドッキングしてもうまくいかない」
「正確。アポ型のポケットは閉じているか、違う形をしている」
瀬奈が質問した。「じゃあ、どうすればいいんですか?」
「ホロ型の構造を使う。リガンドが結合した状態だ」
「でも、この化合物のホロ型構造はないですよね」
「そこが問題だ」リナが頷いた。
アキラが考え込んだ。「じゃあ、どうやってInduced-Fitを考慮する?」
「いくつか方法がある」
リナが列挙し始めた。
「一つ目、柔軟ドッキング。タンパク質の一部を柔軟にして、ドッキング中に構造を調整する」
「一部?全部じゃない?」
「全原子を柔軟にすると、計算コストが爆発する。だから、結合ポケット周辺だけ」
「なるほど」
「二つ目、アンサンブルドッキング。複数の構造を用意して、それぞれにドッキングする」
「複数の構造?」
「分子動力学シミュレーションで生成する。タンパク質を動かして、色々な立体配座をサンプリングする」
瀬奈が興味を持った。「タンパク質が動くのを見られるんですか?」
「そう。MDシミュレーション。時間発展をシミュレートする」
アキラが別の疑問を持った。「三つ目は?」
「類似リガンドのホロ型を使う。似た化合物が結合した構造があれば、それを参考にする」
「でも、それもない場合は?」
リナがため息をついた。「それが一番難しい」
「どうするの?」
「ホモロジーモデリング。似たタンパク質のホロ型から、目的のタンパク質の構造を予測する」
「不確実性が増すな」アキラが言った。
「そう。だから、最終的には実験的検証が必要だ」
瀬奈が核心を突いた。「Induced-Fitがあると、計算創薬は難しいんですね」
「難しいけど、不可能じゃない」リナが言った。
「例えば?」
「HIV-1プロテアーゼ。有名なInduced-Fitの例だ」
リナが構造を表示した。フラップが開いたアポ型と、閉じたホロ型。
「こんなに違うんですか」瀬奈が驚いた。
「そう。でも、MDシミュレーションで、この変化を再現できる」
「すごい」
アキラが質問した。「計算時間は?」
「数時間から数日。リソース次第だ」
「実用的なのか微妙だな」
「だから、用途によって使い分ける。初期スクリーニングは剛体ドッキング、最終候補の精密評価はMDとFEP」
瀬奈がまとめた。「Induced-Fitは罠だけど、適切な手法で救済できる」
「そう。罠を知っていれば、対処できる」リナが微笑んだ。
アキラが新しいドッキングを開始した。「今度はMDで生成した構造を使ってみる」
計算が走る。数分後、結果が出た。
「スコアが改善した!」
「リガンドに適合した構造を使ったからね」
瀬奈が感心した。「タンパク質が動くことを考慮するって、大事なんですね」
「生命は動的だ。静的な構造だけ見ても、真実は見えない」リナが言った。
「でも」アキラが付け加えた。「計算コストとのバランスも必要だ」
「そう。完璧を求めすぎると、時間がかかりすぎる」
瀬奈がつぶやいた。「Induced-Fitの罠と救済。それを理解することが、創薬の鍵なんですね」
リナが頷いた。「柔軟性を制する者が、ドッキングを制する」
Induced-Fitという現象。それは罠でもあり、機会でもある。