「なんかモヤモヤする」
海斗が天井を見上げて言った。放課後の教室で、三人だけが残っていた。
「何があった?」レオが尋ねた。
「わからない。それが問題なんだ」
空が興味を示した。「気持ちはあるけど、何の気持ちかわからない?」
「そう。胸のあたりが重い。でも、悲しいのか、怒ってるのか、不安なのか、判別できない」
レオがノートに書いた。「アレキシサイミアの可能性がある」
「何それ?」海斗が聞く。
「感情を認識したり、言語化したりするのが困難な状態。『感情の失読症』とも呼ばれる」
「感情がわからない病気?」
「病気というより、特性に近い」空が説明した。「誰にでも程度の差はある」
海斗が体をさすった。「でも、何か感じてはいるんだ。ただ、名前がつけられない」
「身体感覚はある?」レオが聞いた。
「胸が締め付けられる感じ。喉が詰まる感じ」
「それは感情の身体的サイン」空が言った。「脳が感情を処理してるけど、意識的に認識できていない」
レオが図を描いた。「感情には二つの経路がある。一つは身体反応。もう一つは認知的評価」
「認知的評価?」
「『これは怒りだ』『これは不安だ』と、感情にラベルをつけるプロセス」
海斗が考えた。「俺は、ラベルをつけるのが下手なのか」
「そうかもしれない。でも、それは訓練で改善できる」空が励ました。
「どうやって?」
レオが提案した。「感情日記をつけるといい。毎日、感じたことを書き出す」
「書けないから困ってるんだけど」
「最初は身体感覚だけでいい」空が言った。「『胸が重い』『手が震えた』『顔が熱い』とか」
「それが感情とどう関係するの?」
「身体感覚と感情は繋がってる。胸が重い時、何が起きてた?」
海斗が思い出した。「朝、親と喧嘩した」
「じゃあ、怒りか悲しみの可能性が高い」レオが分析した。
「でも、どっちかわからない」
空が質問した。「喧嘩の内容を思い出したとき、攻撃したい気持ちになる?それとも、泣きたい気持ち?」
海斗が目を閉じた。「両方ある。でも、どちらかと言うと...泣きたい」
「それは悲しみに近いかもしれない」
「悲しい...のか」海斗が呟いた。「言葉にすると、少し楽になる」
レオが説明した。「感情に名前をつけることを、情動ラベリングという。これは感情調整の第一歩だ」
「名前をつけると、コントロールしやすくなる?」
「そう。『なんかモヤモヤする』より、『親との喧嘩で悲しい』の方が、対処法が見えやすい」
空が加えた。「感情は、情報なんです。『何かが間違っている』というシグナル」
「悲しいということは、大切なものを失った、あるいは傷ついたということ」
海斗が頷いた。「親との関係が大事だから、喧嘩が辛かった」
「気づけたね」レオが認めた。
「でも、いつもこんなに時間をかけて分析できない」
空が提案した。「感情語彙を増やすといい。『悲しい』『嬉しい』『怒り』だけじゃなくて」
「他には?」
「落胆、焦燥、不安、安堵、羨望、誇り...たくさんある」
レオがリストを見せた。「感情輪というツールがある。基本感情から派生する微妙な感情を地図のように示している」
「感情にも地図があるのか」海斗が興味を持った。
「感情語彙が豊かになると、自分の状態をより正確に把握できる」
海斗がスマホにメモした。「感情日記と感情語彙、試してみる」
空が笑った。「海斗くんが自己理解を深めようとしてる。成長だね」
「モヤモヤするのが嫌なだけだよ」
「動機は何でもいい」レオが言った。「感情を理解することは、自分を理解すること」
海斗が窓の外を見た。「言葉にならない気持ちって、本当は言葉がないんじゃなくて、知らないだけかもしれない」
「良い洞察だ」空が認めた。
「じゃあ、今から家に帰って、親に謝る。それが『悲しみ』への対処法だ」
レオが微笑んだ。「完璧な応用だ」
海斗が立ち上がった。「ありがとう。少し、自分がわかった気がする」
教室に静けさが戻った。言葉にならない気持ちは、言葉を待っている。