エントロピーの上昇を止めたい

エントロピー、不確実性、そして情報理論が世界を理解するのにどう役立つかの探求。

「部室、また散らかってる」

由紀がため息をついた。本、ノート、ペン、コーヒーカップ。先週整理したはずなのに。

「エントロピーが増大してるんだよ」陸が適当に言った。

「陸くん、エントロピーの意味分かって言ってる?」

「乱雑さでしょ?物理で習った」

葵が面白そうに会話に加わった。「実は、陸の言うことは正しい。部室は孤立系に近い。だから自然とエントロピーが増える」

「孤立系?」由紀が聞いた。

「外部との相互作用が少ないシステム。熱力学の第二法則によれば、孤立系のエントロピーは時間とともに増大する」

「じゃあ、元に戻すことはできないんですか?」

「できるよ。でも、そのためにはエネルギーと情報が必要だ」

その時、S教授が部室に入ってきた。

「面白い話をしているね。マクスウェルの悪魔の話は知ってるかい?」

三人が首を横に振った。

S教授は静かに説明を始めた。「19世紀、マクスウェルという物理学者が思考実験を提案した。分子の速度を測定できる小さな悪魔を想像する」

「悪魔?」陸が興味津々だった。

「この悪魔は、箱の中央に仕切りを置く。速い分子は右へ、遅い分子は左へ振り分ける。すると、右側は熱くなり、左側は冷たくなる」

「エントロピーが減る!」由紀が驚いた。

「そう見える。でも、20世紀になって、これには落とし穴があることが分かった」

葵が続けた。「悪魔は分子の速度を測定する。つまり、情報を取得する。その情報を記憶する過程で、実はエントロピーが生成される」

「情報とエントロピーが関係してるんですか?」

「深く関係している。ランダウアーの原理によれば、1ビットの情報を消去するには、最低でもkT ln2のエネルギーが必要だ」

S教授が補足した。「つまり、悪魔が測定を続けるには、いずれ記憶を消去しなければならない。そのとき、エントロピーが増大する」

陸が考え込んだ。「じゃあ、この部室を片付けるのも…」

「情報処理だ」葵が言った。「どこに何があるかを記憶し、最適な配置を決める。脳がエネルギーを使って、情報処理をする」

「そして、脳は熱を放出する」S教授が続けた。「その過程で、宇宙全体のエントロピーは増える」

由紀が不思議そうに聞いた。「でも、生命はエントロピーを減らしてますよね?秩序を作り出してる」

「局所的にはね」葵が頷いた。「でも、生命が秩序を維持するために消費するエネルギーを考えると、全体としてはエントロピーが増えている」

「生命は、エントロピーの流れを制御するシステムなんだ」S教授が言った。「低エントロピーの食物を取り入れ、高エントロピーの熱を排出する」

陸が突然立ち上がった。「じゃあ、部室を片付けよう!」

「急にどうした?」由紀が驚いた。

「俺たちが情報処理デバイスなら、部室の秩序を維持するのも役割だろ」

葵が微笑んだ。「良い心がけだ。ただし、片付けた後はお腹が空くよ」

「なぜ?」

「脳がエネルギーを消費するから。情報処理にはコストがかかる」

四人で部室を片付け始めた。本を棚に戻し、ペンを整理し、ゴミを捨てる。

「これって、符号化みたいなものですね」由紀が言った。「雑然とした状態を、規則的な配置に変換してる」

「鋭い観察だ」S教授が認めた。「情報理論のエントロピーと、熱力学のエントロピーは、実は同じ概念の異なる側面なんだ」

片付けが終わった。部室は見違えるように整然としていた。

「でも、また散らかるんだろうな」陸が言った。

「それがエントロピーの本質だ」葵が答えた。「秩序を維持するには、継続的な情報処理とエネルギー投入が必要」

由紀が窓の外を見た。「宇宙全体もいずれ…」

「熱的死を迎える。エントロピーが最大になる状態だ」S教授が静かに言った。「でも、それまでの間、私たちは局所的な秩序を作り続けることができる」

陸がコーヒーを淹れ始めた。「じゃあ今、宇宙のエントロピーをちょっと増やしてる?」

「正確だね」葵が笑った。「でも、その温かいコーヒーが、私たちに秩序を維持する力を与えてくれる」

四人は、熱くなったコーヒーカップを手に、宇宙の運命について静かに考えた。