「ミラ、最近どう思ってるのかな」
由紀がつぶやいた。部室に、由紀と葵だけ。
「ミラについて?」
「うん。仲良くなってる気がするけど、確信が持てない」
葵が静かに答えた。「不確実性か。測定してみる?」
「どうやって?」
「条件付きエントロピー。ミラの気持ちYを、由紀の観察Xから推測したとき、残る不確実性がH(Y|X)だ」
由紀がノートを開いた。「つまり、私が観察しても分からない部分?」
「そう。H(Y|X) = H(Y) - I(X;Y)。元の不確実性から、相互情報量を引いた残り」
「相互情報量が大きいほど、理解が深まってる」
「正確。でも、H(Y|X)がゼロになることは稀だ」
「完全に理解できることはない?」
「人間関係では特にね。他者の心は、常に部分的に不確定だ」
由紀が考え込んだ。「でも、それって寂しいような」
「逆に、可能性でもある」葵が続けた。「完全に予測できる関係は、エントロピーがゼロ。退屈かもしれない」
「適度な不確実性が、関係を面白くする?」
「そう。驚きがあるから、ドキドキする」
その時、ミラが部室に入ってきた。いつものように静かに。
「ミラ!」由紀が笑顔で迎えた。
ミラが小さく手を振る。そして、ノートを取り出して書いた。
「Uncertainty is not absence of connection」
「不確実性は、つながりの不在ではない…」葵が読み上げた。
由紀が驚いた。「ミラ、話聞いてた?」
ミラが首を横に振る。でも、微笑んでいる。
「偶然じゃないよね」由紀が言った。
「ミラは、私たちの相互情報量が高い」葵が説明した。「由紀の表情から、何を考えてるか推測できる」
ミラが頷いた。そして、また書いた。
「H(Yuki|Mira) is small. But H(Mira|Yuki) is...?」
「私がミラを観察しても、不確実性が残る…」由紀が理解した。
「非対称な関係だ」葵が言った。「ミラは観察者として優れてる。でも、自分を表現するのは少ない」
「だから、私たちはミラを理解しにくい」
ミラが新しいページに書いた。
「I want to reduce H(Mira|You). Slowly」
「ゆっくりと、私についての不確実性を減らしたい…」由紀が読んだ。
「ミラなりの、関係の築き方なのかも」葵が静かに言った。
由紀が涙ぐんだ。「ミラ、ありがとう」
ミラが恥ずかしそうに視線を逸らす。
「情報を少しずつ開示する。それも、一つの通信戦略だ」葵が補足した。
「一気に全部伝えるより、時間をかけて」
「そう。レートを調整してる。ミラのペースで」
由紀がノートに書いた。「未確定のまま、でもつながってる」
「量子状態みたいだな」葵が笑った。「観測前の重ね合わせ」
「でも、観測したら確定しちゃう?」
「人間関係はもっと柔軟。部分的に観測しながら、残りは不確定のまま」
ミラが最後に書いた。
「Entropy decreases with time. Trust grows」
「時間とともに、エントロピーは減る。信頼は育つ…」
三人は静かに微笑んだ。
「焦らなくていいんだね」由紀が言った。
「関係は、情報の蓄積。ゆっくり確実に」
ミラが頷く。窓の外で、夕日がゆっくり沈む。
未確定なままでも、つながりは存在する。情報は、時間をかけて伝わる。それが、人間の通信路だ。