ミラが部室に来なかった。
「珍しいね」由紀が言った。
「うん」葵が時計を見る。「いつもなら、もう来てる時間だ」
二人は少し待った。でも、ミラは現れなかった。
「連絡はないの?」
「ない。それが逆に情報になる」
「情報?来ないことが?」
葵はノートを開いた。「情報理論では、起こらなかったことも情報を運ぶ」
「どういうこと?」
「期待されていたイベントが起こらないとき、その不在自体が驚きを生む。つまり情報量がある」
由紀が考え込んだ。「でも、何も起こってないのに?」
「情報量は、期待との差で決まる。ミラがいつも来るという事前確率が高いほど、来ないことの情報量は大きい」
葵はホワイトボードに式を書いた。
「I(event) = -log₂ P(event)。もしP(ミラが来る) = 0.95なら、来ないことの情報量は約4.3ビット」
「来ることよりも、来ないことの方が情報量が多い?」
「そう。珍しいイベントほど、情報量が大きい」
由紀がふと思いついた。「じゃあ、無言も情報を運ぶ?」
「まさに。会話で沈黙が生じるとき、それは単なる空白じゃない。何かを伝えている」
「例えば?」
「質問に答えないこと。それ自体が『答えたくない』という情報だ」
由紀が頷いた。「犬が吠えなかった、みたいな話ですね」
「シャーロック・ホームズ。鋭い比喩だ。番犬が吠えなかったことが、侵入者が知り合いだったという証拠になった」
二人はまた沈黙した。
「今の沈黙は?」由紀が笑った。
「考える時間。処理時間。これも情報の一部だ」
その時、ドアが開いた。ミラが入ってきた。いつもより少し遅く、少し慌てた様子だった。
「ミラ!」由紀が安心した。
ミラは小さく頷き、メモを見せた。「Sorry. Train delay.」
「電車遅延か」葵が理解した。「それは予測できなかった」
ミラが別のメモを書いた。「You worried?」
「少しね」由紀が認めた。
「それが情報だ」葵が説明する。「君が来ないという観測から、僕らは何かが起きたと推測した」
ミラが微笑んで、新しいメモを書いた。「Absence = information」
「不在も情報。正確だ」
由紀が質問した。「じゃあ、期待してないことが起こらなくても情報?」
「情報量は小さい。でも、ゼロではない。確率がゼロでない限り、どんなイベントも情報を運ぶ」
ミラが追加した。「Bayesian update」
「そう。観測ごとに、事前確率を更新する。起こったことも、起こらなかったことも、すべて更新の材料だ」
由紀がノートに書き込んだ。「沈黙、不在、遅延。全部が情報なんですね」
「コミュニケーションは、言葉だけじゃない。タイミング、間、不在。全てが意味を持つ」
ミラが静かに座った。そして、いつものように観察を始めた。
由紀が囁いた。「ミラの沈黙も、高い情報量を持ってる気がします」
「彼女の沈黙は、意図的だからね。ランダムな沈黙よりも、情報密度が高い」
「どうして?」
「パターンがある。彼女は、重要なタイミングでだけ話す。その選択性が、情報を濃縮する」
ミラがメモを残した。「Silence is not empty. Silence is full.」
沈黙は空ではない。沈黙は満ちている。
由紀はそれを読んで、深く理解した。情報は、音だけでなく、静けさの中にもある。不在の中にもある。期待と観測の差、そこに情報が生まれる。