「ミラさん、最近よく眠そうですね」
空がミラに声をかけた。図書館の隅、ミラは本を開いたまま目を閉じていた。
「睡眠時間は足りてる」ミラが小さく答える。
レオが近づいた。「物理的な疲労と精神的な疲労は、別のメカニズムだよ」
「別?」
「そう。睡眠で回復するのは主に身体的疲労。精神的疲労は、もっと複雑だ」
空がノートを開いた。「心理学では、これを累積的ストレス反応と呼びます」
ミラが興味を示した。「累積?」
「小さなストレスが積み重なっていく」レオが説明した。「一つ一つは小さくても、総量が臨界点を超えると、急激に疲弊する」
「バケツの水みたいなもの」空が例えた。「一滴ずつは気にならないけど、満杯になると溢れる」
ミラが考え込んだ。「最近、何もやる気が起きない」
「それは警告サインかもしれません」空が慎重に言った。「燃え尽き症候群の初期症状に似ています」
「燃え尽き?」
レオがタブレットを開いた。「クリスティーナ・マスラックの研究。燃え尽き症候群には三つの要素がある」
「情緒的消耗感、脱人格化、個人的達成感の低下」空が続けた。
ミラがゆっくり頷いた。「全部当てはまる気がする」
「ミラさん、最近何をしていました?」空が聞いた。
「授業、委員会、バイト、家の手伝い...」
「それだけ?」
ミラが少し躊躇した。「友達の相談にも乗ってた」
レオが眉をひそめた。「休息の時間は?」
「...考えてなかった」
「それが問題だ」レオが指摘した。「認知的リソースには限界がある。回復なしで消費し続けると、システムが崩壊する」
空が図を描いた。「ストレス-回復モデルでは、ストレスと回復のバランスが重要とされます」
「ストレスが回復を上回り続けると、心的エネルギーが枯渇していく」
ミラが静かに言った。「でも、休むと罪悪感がある」
「なぜ?」
「みんな頑張ってるから。私だけ休むのは...」
レオが首を振った。「それは認知の歪みだ。比較思考に基づいている」
「比較思考?」
「他者と自分を比較して、自分の正当性を判断すること」空が説明した。「でも、それは誤った前提に基づいています」
「誤った前提?」
「みんなが同じ疲労閾値を持つという前提」レオが答えた。「実際には、個人差が大きい」
空が続けた。「さらに、他者の内面は見えません。表面的な活動量だけで、疲労度は測れない」
ミラが考えた。「じゃあ、どうやって自分の疲労を知る?」
「身体のシグナルを聞くこと」レオが言った。「集中力の低下、イライラ、無気力。これらは警告だ」
空が加えた。「日記をつけるのも有効です。感情と活動を記録して、パターンを見つける」
ミラがノートを取り出した。「何を書けば?」
「一日の終わりに、三つのことを」空が提案した。「疲労度、主な活動、気分。数週間続けると、傾向が見えます」
レオが補足した。「特に、どの活動が最も疲労を引き起こすかに注目する」
「人によって、疲労源は異なる」空が説明した。「ある人には楽しい社交が、別の人には最大のストレス源になる」
ミラが書き始めた。「今日は...疲労度8、活動は多すぎる、気分は空虚」
「良いスタートだ」レオが認めた。
空が優しく聞いた。「ミラさん、何があなたを回復させますか?」
ミラが考え込んだ。「...絵を描くこと。音楽を聴くこと」
「最後にそれをしたのは?」
「二週間前」
レオが驚いた。「二週間も回復活動をしていない?」
ミラが小さく頷いた。
「それが答えだ」空が言った。「回復なしでは、心は枯渇する」
「でも、時間がない」
「時間は作るものだ」レオが断言した。「優先順位の問題。回復を後回しにすると、すべてのパフォーマンスが低下する」
空が続けた。「飛行機の安全指示を思い出してください。まず自分が酸素マスクをつけてから、他者を助ける」
ミラが微笑んだ。「自分を先に回復させる」
「その通り」
レオがスケジュール帳を見せた。「僕は毎日、最低一時間の回復時間をブロックしている。交渉不可能な時間として」
「ミラさんも、そういう時間を設定しましょう」空が提案した。
ミラが頷いた。「今夜から、絵を描く時間を作る」
「素晴らしい」空が微笑んだ。
ミラが本を閉じた。「疲れていることに、気づいてなかった」
「気づくことが、回復の第一歩です」
三人は静かに図書館を出た。心の疲労は見えないが、無視できない。それを理解することが、健康への道だと知りながら。