「決められない…」
由紀は三つの選択肢を前に悩んでいた。進路調査の紙だった。
「どれも良さそうに見えるの?」葵が尋ねた。
「逆です。どれも不確かで…」
陸が覗き込んだ。「理系、文系、未定。俺は『未定』にしたよ!」
「それは決めてないだけでは」由紀が苦笑した。
その時、S教授が部室に入ってきた。いつもより早い訪問だった。
「不確実性の扱い方について悩んでるようだね」
「教授、聞いてたんですか?」
「廊下でね。情報理論には、不確実性を数学的に扱う方法がある」
葵がノートを開いた。「確率分布ですね」
「そう。未確定な状態を、確率として表現する。例えば、由紀くんの心の中で、理系40パーセント、文系30パーセント、未定30パーセントかもしれない」
「数値化できるんですか、気持ちも?」
「少なくともモデル化できる。ベイズ統計という分野がある」
陸が興味を示した。「ベイズ?」
S教授が静かに説明した。「事前確率と事後確率。最初の予測を、新しい情報で更新していく」
葵が補足する。「例えば、最初は三つが等確率だとする。でも、理系の授業が楽しかったという情報が入れば、理系の確率が上がる」
「情報が増えると、確率分布が変わる?」由紀が理解し始めた。
「まさに。ベイズの定理。P(A|B) = P(B|A)P(A) / P(B)。Bという証拠があるとき、Aの確率はどう変わるか」
陸が首をひねった。「難しそう…」
「具体例で考えよう」S教授が言った。「天気予報を想像して。昨夜の予測では、晴れ70パーセント。でも今朝、空が曇ってる。この新しい情報で、晴れの確率を更新する」
「なるほど。最初の70パーセントが事前確率で、曇りという証拠で更新した結果が事後確率」由紀が整理した。
「正確だ。そして、不確実性の中で最良の決定をするには、確率を更新し続けることが重要だ」
葵が続けた。「決められないのは、情報が不足してるから。でも、完全な情報は永遠に得られない。だから、現時点の確率分布で最良の選択をする」
「それって、いつまでも決められないってこと?」陸が心配した。
「いや。ある時点で、確率が十分に偏ったら決断する。あるいは、決断の期限が来たら、その時点の分布で選ぶ」
S教授が付け加えた。「決定理論では、期待効用を最大化する。各選択肢の価値に確率を掛けて、最も期待値が高いものを選ぶ」
由紀が考え込んだ。「でも、どの選択肢の価値も、よく分からないんです」
「それも不確実性の一部だ。でも、考えることで少しずつ明確になる。それ自体が情報収集だよ」
陸が言った。「じゃあ、『未定』も一つの確率分布ってこと?今の由紀は、まだ情報収集中」
「良い解釈だ」葵が頷いた。「『未定』は、確率分布がまだフラットな状態。情報が増えると、分布が尖ってくる」
由紀が少し楽になった。「決められないことを、悪く思わなくていいんですね」
「そう。不確実性は自然なこと。大事なのは、それを認識して、情報を集めながら更新していく態度だ」S教授が静かに言った。
由紀は進路調査の紙を見直した。今はまだ、確率分布がフラット。でもそれでいい。情報を集めながら、少しずつ確率を更新していく。
「ベイズ的に生きる、ですね」由紀が微笑んだ。
「君は理解が早い。その柔軟性が、情報理論を学ぶ才能だよ」
S教授は静かに部室を出て行った。いつものように、的確な示唆だけを残して。
「未定もまた、一つの状態だ」葵が言った。
陸が笑った。「俺も、ベイズ的に未定を楽しむことにする!」
由紀はノートに書いた。「未確定は、可能性。確率は、柔軟性。」
今日もまた、新しい情報を得た。