「葵先輩は、陸くんのこと信頼してますか?」
由紀の突然の質問に、葵は少し考えた。
「難しい質問だね。信頼を数値化できるなら、答えやすいけど」
「数値化?」
「ベイズ推定という考え方がある。観測データから信念を更新していく」
陸が近づいてきた。「俺の話してる?」
「信頼の話だよ」由紀が答えた。
葵がノートを開いた。「陸が約束を守る確率を考える。最初は事前確率を設定する」
「最初は50パーセント、とか?」
「例えばね。でも、陸の行動を観測するたびに、その確率を更新する。これが事後確率だ」
陸が尋ねた。「で、俺の信頼度は?」
「遅刻データから計算すると…」葵が電卓を叩く。「約27パーセント」
「低い!」
「でも」葵が続けた。「これは更新可能だ。もし陸が今後10回連続で時間通りに来たら、信頼度は急上昇する」
由紀が興味を持った。「それがベイズ推定?」
「そう。P(仮説|データ) = P(データ|仮説)・P(仮説) / P(データ)。ベイズの定理だ」
「難しそう…」
葵が簡単に説明した。「事後確率は、尤度と事前確率の積に比例する。データを観測することで、信念を合理的に更新できる」
陸が真剣になった。「じゃあ俺、証明してみせる。明日から毎日時間通りに来る」
「それは新しいデータになる」葵が微笑んだ。「でも、ベイズ的には、過去のデータも重要だ」
「厳しい…」
由紀が言った。「でも、可能性はゼロじゃないですよね」
「もちろん。ベイズ推定の美しさは、事前確率がゼロでない限り、どんな仮説も可能性を残すこと」
陸が考え込んだ。「じゃあ、友情もベイズ推定?」
葵は少し驚いた顔をした。「面白い視点だ」
「だって、最初は互いを知らない。でも、一緒に過ごす時間で、相手への信念が更新されていく」
由紀が頷いた。「良い例えですね」
葵が補足した。「そう。最初の事前確率は曖昧かもしれない。でも、相互作用のたびに事後確率が精緻化される」
「じゃあ」陸が尋ねた。「葵先輩の俺への信頼度は、本当に27パーセント?」
葵は静かに笑った。「遅刻という特定の行動についてはね。でも、友情は多次元だ。遅刻以外の要素もある」
「例えば?」
由紀が口を挟んだ。「陸くんが困ってる人を助ける確率は高いですよね。事後確率も高いはず」
「確かに」葵が認めた。「その特性については90パーセント以上だろう。分かるか?私たちは人の異なる側面について、異なる確率分布を持っているんだ」
「困った時に助けてくれる確率、秘密を守る確率、一緒にいて楽しい確率」
由紀が言った。「それぞれに事前確率と事後確率がある」
「そして、全体として『信頼』という複合的な信念が形成される」
陸が微笑んだ。「なんか、友情が複雑な数式になった気がする」
「でも」葵が優しく言った。「ベイズ推定は合理的だけど、人間はもっと複雑だ。直感や感情も大切」
由紀が尋ねた。「じゃあ、情報理論と人間の違いは?」
「情報理論は理想的なモデル。でも人間には、モデル化できない部分がある」
陸が言った。「だから、俺たちは友達でいられる?」
「たぶんね」葵が頷いた。「完全に予測できたら、つまらない」
由紀が微笑んだ。「不確実性があるから、驚きがある」
「そう。エントロピーがゼロの関係は、情報的には死んでいる」
陸は手帳を取り出した。「でも、少しは予測可能になるよう努力する。27パーセントから50パーセントへ」
「期待してるよ」葵が言った。
由紀が付け加えた。「でも、100パーセントじゃなくていいと思う」
「不完全さが、人間らしさだね」葵が認めた。
三人は夕暮れの部室で、確率モデルと友情について語り合った。
ベイズ推定は、信念を更新する技術だ。
でも、信じることそのものは、数式を超えている。