「これ、うまく組めない」
奏が分子模型と格闘していた。
零が近づいた。「何を作ってる?」
「アミノ酸。でも、4本の結合が平面に並ばない」
「当然だ」零が答えた。「炭素の結合は、四面体配置だから」
奏が顔を上げた。「四面体?」
ミリアが模型を手に取った。「炭素は、4つの結合を作る。それが立体的に配置される」
「平面じゃないの?」
「平面じゃない。正四面体。109.5度の角度」零が説明した。
奏が模型を回した。「なんでこの形?」
「電子対反発」ミリアが答えた。「4つの結合電子対が、互いに最も離れた配置を取る」
零が補足した。「sp3混成軌道。s軌道1つとp軌道3つが混ざって、4つの等価な軌道を作る」
奏がノートに描こうとした。「平面に描けない…」
「立体化学の難しさ」ミリアが笑った。「3次元を2次元で表現する」
零が記号を教えた。「くさび形で表す。太い楔は手前、破線は奥」
奏が描き直した。「こう?」
「正しい。それで立体配置が分かる」
ミリアが別の模型を組んだ。「同じアミノ酸だけど、鏡像」
奏が二つを比べた。「あ、重ならない」
「そう。鏡に映した関係。鏡像異性体と呼ばれる」
零が説明した。「炭素に4つの異なる基が付くと、キラル中心になる」
「キラル?」
「ギリシャ語で『手』。右手と左手の関係」
奏が自分の手を見た。「確かに、鏡像だけど重ならない」
「多くのアミノ酸はキラル。LとDの二つの形がある」ミリアが続けた。
「違いは?」
「化学的性質は同じ。でも、立体的な性質が違う」
零が例を出した。「光学活性。偏光を回転させる方向が逆」
奏が興味を持った。「生物は、どっちを使うの?」
「L型」ミリアが即答した。「ほぼ全ての生物が、L-アミノ酸だけを使う」
「なんで?」
「まだ完全には分かっていない。でも、一度選んだら統一する必要があった」
零が補足した。「酵素は立体を認識する。L型に最適化された酵素は、D型を認識できない」
「鍵と鍵穴?」奏が比喩した。
「正確。立体構造が合わないと、反応しない」
ミリアが例を挙げた。「糖も同じ。生物はD-グルコースを使う」
「アミノ酸と逆?」
「そう。アミノ酸はL、糖はD。不思議だけど、それが生命の選択」
奏が考えた。「もし逆だったら?」
「理論上は可能」零が答えた。「でも、全て逆にしないといけない。酵素も、受容体も、全て」
「別の生命?」
「鏡像生命。SF的だけど、化学的には可能」
ミリアが真剣な顔をした。「でも、地球上では共存できない」
「なぜ?」
「栄養を取り込めない。L型酵素は、D型タンパク質を分解できない」
零が続けた。「だから、キラリティの統一は重要。生態系全体の約束事」
奏が模型を見つめた。「この小さな違いが、そこまで重要なんだ」
「立体化学は、生化学の基礎」ミリアが言った。
零が付け加えた。「薬も同じ。片方は薬効、もう片方は副作用ということもある」
「え?」
「サリドマイドが有名。片方は鎮静作用、もう片方は催奇形性」
奏が驚いた。「同じ分子なのに?」
「立体が違うだけで、別の分子として認識される」
ミリアが模型を重ねた。「見た目は似てるけど、違う」
「双子みたい。でも、性格が正反対」
零が微笑んだ。「良い比喩」
奏がノートにまとめた。「炭素の四方向の約束=立体化学の基礎」
「そして、生命の左右の選択」ミリアが付け加えた。
窓の外で、木々が揺れる。左右対称に見えて、一つ一つは異なる。自然は、立体を愛する。