「膜って、固いものだと思ってた」
奏が細胞膜の模型を見つめた。
ミリアが微笑んだ。「逆。とても動的な構造よ」
「動的?」
零が説明した。「脂質二重層は流動的。分子が常に動いている」
奏が驚いた。「動いてる?でも、形を保ってるじゃない」
「秩序ある揺らぎ」ミリアが表現した。「液晶みたいなもの」
零がタブレットで図を見せた。「脂質分子は両親媒性。親水性頭部と疎水性尾部」
「両方の性質を持つ?」
「そう。水中では、疎水性部分を内側に、親水性部分を外側にして、二重層を形成する」
ミリアが続けた。「でも、この配置で固定されてるわけじゃない」
「じゃあ、どう動くの?」奏が尋ねた。
「側方拡散」零が答えた。「同じ層の中で、横方向に移動する」
「どれくらいの速さ?」
「1秒間に数マイクロメートル。分子レベルでは高速」
ミリアがアニメーションを見せた。「脂質分子がランダムに位置を変える」
奏が不思議そうに聞いた。「じゃあ、なんで膜は壊れないの?」
「熱力学的に安定だから」零が説明した。「疎水効果が二重層を維持する」
「疎水効果?」
「水分子が疎水性物質を排除しようとする力。エントロピー駆動の現象」
ミリアが補足した。「脂質の尾部は水を嫌う。だから、水から隔離された構造が有利」
奏がノートに書いた。「でも、裏返ることは?」
「フリップフロップ」零が専門用語を使った。「片方の層からもう一方へ移動すること」
「起きるの?」
「非常に遅い。エネルギー障壁が高いから」
ミリアが説明した。「親水性頭部が疎水性領域を通過しなきゃいけない。熱力学的に不利」
「じゃあ、ほとんど起きない?」
「自然には稀。でも、フリッパーゼという酵素が促進することもある」
奏が考えた。「温度が変わると、どうなるの?」
零が答えた。「相転移が起きる。ゲル状態から液晶状態へ」
「相転移?」
「固体から液体みたいな変化。脂質の運動性が急激に変わる」
ミリアが図を描いた。「低温では、脂質の尾部が整列して固まる。高温では、無秩序に揺らぐ」
「生き物にとって、問題じゃない?」奏が心配した。
「だから、膜組成を調整する」零が説明した。「不飽和脂肪酸を増やすと、流動性が上がる」
「不飽和?」
「二重結合がある脂肪酸。曲がりくねった構造で、密に詰まりにくい」
ミリアが続けた。「コレステロールも重要。温度による流動性変化を緩和する」
奏が感心した。「膜って、精密に設計されてるんだ」
「流動モザイクモデル」零が言った。「膜タンパク質が脂質の海に浮かんでる」
「海?」
「脂質二重層を二次元の流体と考える。タンパク質はその中を移動できる」
ミリアがアニメーションを再生した。「タンパク質が膜の中を泳ぐように動く」
奏が驚いた。「タンパク質も動くんだ」
「細胞の反応に必要。受容体が集合したり、信号を伝達したり」
零が整理した。「膜の流動性は、生命活動の基盤。固すぎても柔らかすぎてもダメ」
「絶妙なバランス」ミリアが付け加えた。
奏が膜の模型を触った。「揺らいでるからこそ、機能する」
「そう。静的な構造じゃ、生命は維持できない」零が言った。
ミリアが静かに微笑んだ。「揺らぎの中に秩序がある。それが生命の美しさ」
奏はノートに書いた。「脂質二重層の揺らぎ—動的平衡の芸術」
三人は模型を見つめた。目に見えない揺らぎが、細胞を生かしている。